市場城
(いちばじょう)

市指定史跡

豊田市市場町城


▲市場城は戦国期に鱸氏四代の居城として九十年続いた山城
である。最後の城主重愛によって石垣が積まれ、改修された。
(写真・本丸下の段の石垣。)

山間に生きた鱸氏四代の山城

 この辺りはかつて小原谷と呼ばれる山間の里であった。この小原谷に城館を築いて居所としたのは足助重春の一族で、室町時代初期の応永年間(1394-1482)のことであったとされている。重春は後醍醐天皇が笠置山(笠置城)に挙兵した際に三河(飯盛城)から馳せ参じた足助重範の弟とされる。南朝衰退によって足助の地を去り、その一族はさらに山深い小原谷に隠れ住んだのであろうか。

 その後、足助を拠点として勢力を張った足助鈴木氏の勢力下に置かれたようである。足助鈴木氏の初代小次郎忠親(真弓山城)が鱸(すずき)藤五郎親信に小原谷を与えたという。長禄三年(1459)のこととされている。この時の居城は現在の市場古城と呼ばれているところで、市場城の東500mほどの山上にある。

 その後、西三河地方は松平郷から勢力を拡大した松平氏の席巻によって戦国の様相が色濃くなってゆく。

 そうした世相の移り変わりのなかで親信はより堅固な城の必要性を感じたのであろう。文亀二年(1502)にこの市場城を築いたと伝えられている。その後、鱸氏は二代肥後守永重、三代伊賀守直重、四代越中守重愛(しげよし)と続いた。

 四代目の鱸重愛は徳川家康の下で大功をたてて天正十一年(1583)に領地を加増されたと現地説明板にある。天正十年(1582)前後の家康は対武田戦そして武田討伐、武田滅亡後の甲斐、信濃の攻略にと東奔西走の多忙な時期を経ている。当然、足助鈴木氏とともに鱸重愛も家康の麾下で各地の戦場を駆け巡ったことと思われる。天正九年(1581)の遠江高天神城の戦いでは鈴木喜三郎、鈴木越中守が頸百三十八を討ち取ったことが「信長公記」等に記されている。徳川勢のなかでは大須賀五郎左衛門康高の百七十七に次ぐ戦功である。鈴木喜三郎とは足助真弓山城主鈴木信重のことで、鈴木越中守は鱸重愛のことなのである。

 ともあれ、重愛は加増されたことで城を大改修したようだ。本丸やその周辺の法面、門などを石垣で固め、帯曲輪を増設、竪堀群の整備などなど、各地の戦場を駆け巡って得た経験を生かしたものと思われる。

 天正十八年(1590)、関東移封の命に従わなかったため市場城を退去させられ、文禄元年(1592)廃城となったと伝えられている。と、説明板は城の歴史を締めくくっている。先祖代々の地を離れたくなかったのであろうか。本当のことは分からないようである。


▲本丸の石垣。

▲戦国末期に整備されたものとしてはめずらしいとされる竪堀群。

▲見学者駐車場。

▲駐車場に立つ説明板。

▲駐車場から道路を渡った所が登城口である。

▲城跡へは遊歩道が整備されている。

▲遊歩道と城跡の説明図。

▲説明図の立っている所からしばらく進むと曲輪の高まりが見える。

▲市場城主の供養塔前の鳥居と説明板。江戸末期の建立と思われると書かれている。

▲市場城主四代の供養塔。

▲二の丸東側の空堀。

▲空堀を上がると眼前に突如石垣が現れる。本丸下の段の石垣である。

▲本丸の石垣。

▲本丸。

▲本丸跡に建つ城址碑。

▲本丸跡の説明板。

▲本丸西側の帯曲輪。

▲枡形門に至る遊歩道。

▲枡形門跡。

▲さんざ畑と呼ばれる家老屋敷跡。

----備考----
訪問年月日 2017年5月3日
主要参考資料 「日本城郭全集」
「信長公記」他

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