(なかむらしろやまとりで)
掛川市 中
▲ 砦跡南側から望見。天正当時、手前の田畑は海であった。
海からの
補給を断つ
宝永地震(江戸時代)以前はこのあたりまで海面が迫り、砦付近は入江となって古来より港として利用されていたようである。 天正二年(1574)、高天神城が武田勝頼によって落とされてからは、ここが武田方の海上補給の陸揚げ場となっていた。 この港は今川氏の遠江進出以前から小笠地方の年貢米などの船積み地として活用されていたようで、砦跡の北西部には斯波氏(遠江守護)の家臣で中村の地頭であった雑賀氏の居館があったと云われている。 高天神城が今川方の城として強化されるに伴い、周辺には高天神城を取り巻くようにして多くの砦(小笠山砦、三井山砦など)が築かれたが、ここ中村にも砦が築かれた。いうまでもなく海上補給のための港を確保しておくためである。 天正六年に徳川家康は横須賀城の築城を開始して高天神城の攻略に本腰を入れた。横須賀城には歴戦のつわもの大須賀康高を置き、近在の猛者を集めて康高の配下に入れた。後年、強豪軍団として知られるようになる横須賀衆がこのとき誕生したのである。 大須賀康高と横須賀衆は積極的に高天神城南方一帯を攻め続け、徳川方による高天神城を包囲する砦群の築城に大きく貢献したことは云うまでもない。 天正八年(1580)頃にはここ中村城山砦には大須賀康高と横須賀衆七百五十人が布陣していたようで、三月二十五日に浜松城を出陣した家康がここに入ったことが記されている。 翌九年、徳川勢は高天神城の包囲陣を城下にまで縮め、城方を完全に城内に封じ込めた。中村城山砦の大須賀勢も前進して高天神城の南側に陣取った。 三月二十二日、兵糧の尽きた城方は全員城を打って出た。大須賀勢もこぞとばかり城内に一番乗りを果たし、討ち取った首級も徳川方では最も多かった。 |
▲ 砦跡の若宮神社。 |
▲ 神社入り口に建つ「中村城山砦」の標柱。 |
----備考---- |
---|
画像の撮影時期*2007/07 |