応永年間(1394-1428)、上野国赤堀荘を本拠地とする赤堀一族の田原孫太郎景信が信濃国を経て三重郡栗原(後に赤堀に改められる)移住し、赤堀城(四日市市東条)を築いた。と現地の説明板等にあるが、赤堀(田原)氏の伊勢来住に関しては諸説あってあまり明確ではないようだ。
通説では、赤堀城を築いた景信は長男盛宗を羽津に、次男秀宗を赤堀に、三男忠秀を浜田に配したと言われている。後に赤堀三家と称された。
羽津城主となった盛宗は羽津、八幡、吉沢等六ヵ村を領して国司北畠氏に属していたとされる。盛宗の後、宗久、宗善、宗慶、宗昌、近宗と続く。この間に北伊勢の情勢は小土豪(北勢四十八家)が割拠して戦国の様相を色濃くしていた。
永禄二年(1559)、亀山城主関盛信は北伊勢への進攻を企て、茂福(もちふく)城を攻めようと配下の白子左衛門亮、鹿伏兎豊前守の軍勢を赤堀城に進出させた。この頃、関氏と神戸氏(神戸城)が対立状態にあり、茂福城の朝倉氏が神戸氏に付いたために関氏の出兵となったのである。この時期、赤堀氏は関氏に属していた。
羽津城主田原近宗も当然、茂福城攻撃のために家臣の森、長松、岩田らと兵を結集して出陣の態勢をとった。田原近宗は別に赤堀右京亮とも田原国虎とも呼ばれている。茂福城は羽津城の北東約2kmにある。関勢の終結した赤堀城は羽津城の南西約3.5kmである。羽津城は位置的にも攻撃目標の茂福城に最も近接した最前線となっていたのである。羽津城主田原近宗は家臣らを前にして「神戸与力、北畠幕下の諸城は此度の戦で皆落城となろう。我一城も攻めず、関勢の後陣となるは口惜しい。我ら先駆けして茂福城を攻め落とさん」というようなことを言って夜明け前に城を出撃したのである。
ところが、茂福城には萱生城(春日部氏)などからの援軍も入城して守りを固めていたため羽津勢単独では無理攻めもできず、堀越しに鉄砲を撃ち合うだけであった。
赤堀城の白子、鹿伏兎の関勢も赤堀、楠、中川原、堀木の諸勢とともに茂福城攻撃に駆け付けたが、地理に詳しい城方の反撃に崩れ立ち、さらに神戸の大軍が海上から上陸してきたため、城攻めを諦めて撤収してしまった。先駆けした羽津勢もやむなく城へ戻って城門を閉ざした。この時の戦いは後に「茂福合戦」と呼ばれた。
永禄八年(1566)、織田信長の伊勢攻略がはじまり、北伊勢の諸氏は織田家臣滝川一益の麾下に属した。羽津城の田原近宗もこれに従った。
元亀二年(1571)、茂福城主朝倉氏が謀反の疑いで滝川一益に謀殺され、城も落城した。茂福城には滝川家臣山口四郎右衛門が目代として入った。
翌年六月、羽津城の田原近宗は山口四郎右衛門に「隣城のよしみで水魚の交わりを結びたい」と茂福城に呼ばれた。ところが歓待された近宗は毒を盛られて殺されてしまったのである。そして山口勢は城主のいない羽津城を攻め落としてしまったのである。
その後、羽津城には滝川新右衛門が城番として入り、天正十二年(1584)の小牧長久手合戦時には羽柴秀吉がこの城に陣を置いたことが伝えられている。
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