河和城
(こうわじょう)

愛知県知多郡美浜町大字河和


▲ 河和城は知多半島南部の三河湾側に築かれた戸田氏の城
である。城跡は主郭部分の立ち入りは自由であるが、周囲には
ロープ柵が回っており、柵外への立ち入りは危険な状態にあるようだ。

三河湾の覇城

 応仁の乱(1467)によって三河及び知多郡の守護であった西軍一色氏は急速に衰退した。この状況に乗じて勢力拡大に乗り出したのが戸田宗光で、ここ河和にもその拠点を築いた。河和城主として戸田氏の名が登場するのは文明二年(1470)とされる(「戦国知多年表」)。渥美郡に進出する以前のことである。こうした戸田氏の行動の背景には宗光が被官となっていた幕府政所執事の伊勢氏の力が働いていたものとみられる。

 戸田宗光は文明七年(1475)から渥美郡へ進出し、同十二年(1480)には田原城を築いて本城としたが、河和城はその後も三河湾の覇城として維持され続けた。

 二代憲光も田原城を拠城としたが、永正六年(1509)に三代光政に譲ってからは河和城に隠退して河和殿と呼ばれた。実質的には憲光をもって河和初代とされる。

 その後、河和戸田氏は親光、繁光と続き、知多半島を南進する緒川水野氏と争ったという。繁光の後、孫八郎守光の代になると戦国の世も天正(1573-92)の時代となり、激動の時を迎える。

 戸田、水野両氏の対立は守光が刈谷城主水野忠重の姪(水野信元の娘)を室に迎えることで終止符が打たれた。

 天正十二年(1584)、織田信雄(清州城)の命を受け、羽柴秀吉との戦いに備えて城が改修された。

 天正十八年(1590)、守光は秀吉の小田原攻めに従軍のために河和を出陣した。尾張衆を率いるのは織田信雄であったから、その旗下にあったはずである。織田勢は伊豆韮山城を攻め、続いて小田原城の北側に布陣した。

 ところが、守光討死の報せが河和に届けられたのである。どのような戦闘であったのかは伝えられていないが、あろうことか郷民大いに乱れ、城は破却されてしまった。

 守光の妻は三人の子とともに城を脱した。そして野間大御堂寺に逃れ、剃髪して妙源禅尼となった。妙源はその後叔母の於大の方を頼って子等とともに江戸に移り住んだ。

 慶長二年(1597)守光の遺児万千代は徳川家康の配慮により武蔵国内に七百石を給され、水野氏を名乗った。

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦に出陣したときには水野惣右衛門光康と名乗っていた。

 翌年、家康から河和千四百六十石を与えられて十一年ぶりの帰郷を果たすことができた。屋敷は城跡ではなく、集落の北側に築かれた。

 以後、河和水野氏として尾張藩に仕え、十代続いて明治となった。

主郭西側の土塁遺構

▲城址入口。
 ▲ 主郭東側中腹に設けられた登城口。
▲ 主郭跡。1999年3月に試掘調査が行われ、出土遺物からもこの城の存在期間が15世紀半ばから16世紀半ばであったことを裏付けるものであったという。

▲ 主郭西側の土塁。

▲ 主郭西側土塁上から眼下に「横堀」と書かれた看板が見えるが、立ち入れそうもない。

▲ 登城口の駐車位置から望む三河湾。

▲ 登城口の階段前に立てられた説明板。

----備考----
訪問年月日 2010年11月6日
主要参考資料 「戦国知多年表」他

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