長久保城
(ながくぼじょう)

静岡県駿東郡長泉町長窪


▲長久保城は駿東地域の軍事拠点として後北条氏が改築整備した城
である。現在、その遺構のほとんどは市街化されて消滅してしまった
がこの八幡曲輪とその南曲輪に土塁跡がかろうじて残されている。
(写真・長久保城址八幡曲輪とその土塁。)

北条氏康、苦渋の決断

 天文六年(1537)から天文十四年(1545)にかけて今川義元が駿河東部から後北条氏の勢力を一掃しようとして武田信虎と同盟、富士川を越えて駿東地域に出兵を繰り返した。これを「河東一乱」と呼んでいる。

 長久保城はこの戦乱に際して北条氏綱が古塁を修復して本格城塞として整備したものと考えられている。古塁を修復して、と言われるように以前からここに城砦が存在していた可能性があるが、その創築に関しては不明である。

 氏綱はこの長久保城に弟長綱(幻庵)や清水康英らを城将として配したと言われる。

 天文十四年(1545)七月、今川義元は富士川を渡って長久保城を攻囲した。義元はこの出兵に際して関東管領上杉憲政や扇谷上杉朝定らと連携を図っている。上杉勢は時期を同じくして河越城を攻めたのである。小田原城の氏綱は腹背両面の敵に対応しなければならなくなった。

 九月には武田信玄が富士郡大石寺に布陣して今川氏を援護した。十月、氏綱の後を継いだ氏康は河越城の救援を優先することにし、信玄を介して長久保城の開城を決したのであった。氏康、苦渋の決断であったに違いない。

 今川氏支配下時の長久保城の様子は伝えられていないようだ。その今川氏も義元戦死(桶狭間合戦/1560)後、氏真の代になってからは衰退の一途をたどり、永禄十一年(1568)にはついに武田信玄の駿河進攻を許すに至ってしまう。

 この武田氏の駿河進攻に対して後北条氏は同盟関係となっていた今川氏のために駿東地域に出兵して武田勢を駆逐した。この時、後北条氏は再び長久保城を支配下に置いたとされる。

 元亀二年(1571)、信玄が深沢城の戦いで勝利すると後北条氏と武田氏は和睦となり、長久保城は武田氏の支配下に置かれたと言われる。しかし後北条氏の城として存続したとも言われていて判然としないのが現状であるようだ。

 天正十年(1582)に武田氏が滅亡すると長久保城は徳川家康の城となり、松平家忠が修築にあたったとされる。城将としては牧野康成の名がある。

 天正十八年(1590)の小田原合戦時、家康は豊臣秀吉を長久保城に迎えて小田原城攻略の軍議を行っている。

 小田原合戦後、家康は関東へ移り、駿河は中村一氏の領国となった。駿東地域は一氏の弟一栄が沼津城主となって治めたが長久保城が利用されたかどうかは分らない。

 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後中村氏は伯耆米子に転封となり、長久保城は廃城となったとされる。


城山神社公園に残る土塁跡

▲かつての主曲輪跡のショッピングセンター北側の国道246号沿いに建つ城址碑。かつての二の曲輪跡付近である。
 ▲城山神社公園の西側に駐車スペースが設けられている。
▲駐車スペース北側に公園入口がある。

▲入口から入って突き当りに物見台風の遊具施設が建っている。

▲公園はかつての八幡曲輪で、北から西側にかけて土塁が巡っている。

▲公園の南側は城山神社となっている。

▲城山神社はかつての南曲輪と呼ばれる部分で、やはり西側が土塁状の高まりを残している。

▲城山神社の参道入り口。

▲八幡曲輪(左)とその北側三の曲輪(右)の間を貫通する国道246号。三の曲輪跡は小学校の敷地となっている。

▲長久保城の城址碑。城山神社公園とは全く別の所に建っている。ページ上の「地図表示」をクリックして下さい。

----備考----
訪問年月日 2014年6月21日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会
「静岡の山城ベスト50を歩く」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ