竹中氏陣屋
(たけなかしじんや)

県指定史跡

岐阜県不破郡垂井町岩手


▲竹中氏陣屋は当初竹中氏の城館として築かれ、岩手城と呼ばれて
いた。残された遺構はわずかであるが、その石垣や堀はまさに城である。
(写真・竹中氏陣屋の櫓門と石垣と堀。)

戦国の山城から平地の城へ

 天正七年(1579)、竹中半兵衛重治は羽柴秀吉による播磨三木城攻めの陣中で病没した。享年三六歳。

 竹中家は従父竹中重利(重治の従兄弟)が後見となって嫡男重門が継いで秀吉に仕えることになった。十一歳で小牧・長久手合戦(天正十二年/1584)に従軍、天正十六年(1588)には従五位下丹後守に叙任、翌年には美濃国不破郡五千石を授けられた。

 この時に重門はそれまで竹中氏の居城であった山城の菩提山城を廃して平地に移り、岩手の地に城館を築き始めたものと思われる。陣屋と呼ばれるのは幕藩体制下になってからのことで、それまでは岩手城と呼ばれていたのである。

 天正十八年(1590)、重門は小田原征伐(小田原城)に従軍した。天下は秀吉のもとに一統されたかに見えたが、秀吉の没後は関ヶ原の戦いに向かって世の中が大きく動き出した。

 東軍が尾張に迫り、清州城に集結すると美濃衆は犬山城の防備に召集された。郡上八幡城主稲葉貞通、黒野城主加藤貞泰、多良城主関一政らと共に岩手城の竹中重門も犬山城の援将として入城した。ところが肝心の犬山城主石川光吉に戦意はなく、東軍勢が犬山城下に迫ると城を明け渡して去ってしまったのである。重門ら残された援将は石田三成の西軍に付く気はなく、井伊直政の仲介で東軍に属することとなった。

 関ヶ原に布陣した東軍勢のなかで竹中重門は黒田長政と陣を同じくして戦った。合戦後は伊吹山山中に潜伏していた西軍の将小西行長を捕縛する手柄を立て、徳川家康から直筆の感状を受けている。

 さらに領内が戦場となったことで米千石が見舞として与えられ、城の堀・石垣の未完部分が完成したと言われている。千石堀の名が残るのもここからきている。

 関ヶ原後、美濃岩手六千石(内千石は河内国内。寛文四年(1664)に重門の孫重高弟重之に分知)の所領は安堵され、幕府旗本として十三代続いて明治に至った。

 現地説明板の竹中家本邸古図は陣屋初期の頃と言われ、その後陣屋は南側に拡大され、書院、南御殿、馬場、倉庫、藩塾などが増築された。明治後、学校や役場の敷地となり、遺構の大半は失われたが、陣屋の櫓門のみは学校(後の岩手小学校)の正門であるという主張で、明治政府の幕府建造物破壊令に触れることなく現在に残されている。


▲岐阜県史跡に指定されている竹中氏陣屋櫓門。
 ▲陣屋の櫓門。
▲櫓門前に建つ「竹中半兵衛重治公之像」。

▲櫓門南側に残る堀と石垣。

▲陣屋櫓門前に建つ「岐阜県史跡竹中氏陣屋跡」の碑。

▲櫓門の内側。

▲櫓門の石垣上から見た堀と石垣。

▲櫓門北側の石垣。崩れた部分も見られた。

▲陣屋前に立てられた説明板の陣屋の絵図。

▲禅幢寺山門前に建つ「竹中半兵衛菩提所」の碑。

▲禅幢寺の山門に掲げられた幟旗。大河ドラマ「軍師官兵衛」にあやかって作られたものであろう。

▲禅幢寺の竹中半兵衛重治公の墓。天正七年(1579)、半兵衛は播州三木の陣に病没した。天正十五年(1587)に嫡男重門によって三木からここへ移葬された。

▲五明稲荷の銀杏。黒田官兵衛は謀反した荒木村重説得のために有岡城に向かったが返って石牢に幽閉されてしまった。織田信長は官兵衛も謀反したと思い込み官兵衛の嫡男で人質となっていた松寿丸を殺すように命じた。半兵衛は官兵衛を信じて松寿丸を五明の地に匿ったのである。やがて官兵衛が救出されると松寿丸も許された。その後この地を去るにあたり境内に銀杏の木を植えたと言われている。

----備考----
訪問年月日 2014年8月14日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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