(たけなかしじんや)
県指定史跡
岐阜県不破郡垂井町岩手
▲竹中氏陣屋は当初竹中氏の城館として築かれ、岩手城と呼ばれて
いた。残された遺構はわずかであるが、その石垣や堀はまさに城である。
(写真・竹中氏陣屋の櫓門と石垣と堀。)
戦国の山城から平地の城へ
天正七年(1579)、竹中半兵衛重治は羽柴秀吉による播磨三木城攻めの陣中で病没した。享年三六歳。 |
▲岐阜県史跡に指定されている竹中氏陣屋櫓門。 |
▲陣屋の櫓門。 | ▲櫓門前に建つ「竹中半兵衛重治公之像」。 |
▲櫓門南側に残る堀と石垣。 |
▲陣屋櫓門前に建つ「岐阜県史跡竹中氏陣屋跡」の碑。 |
▲櫓門の内側。 |
▲櫓門の石垣上から見た堀と石垣。 |
▲櫓門北側の石垣。崩れた部分も見られた。 |
▲陣屋前に立てられた説明板の陣屋の絵図。 |
▲禅幢寺山門前に建つ「竹中半兵衛菩提所」の碑。 |
▲禅幢寺の山門に掲げられた幟旗。大河ドラマ「軍師官兵衛」にあやかって作られたものであろう。 |
▲禅幢寺の竹中半兵衛重治公の墓。天正七年(1579)、半兵衛は播州三木の陣に病没した。天正十五年(1587)に嫡男重門によって三木からここへ移葬された。 |
▲五明稲荷の銀杏。黒田官兵衛は謀反した荒木村重説得のために有岡城に向かったが返って石牢に幽閉されてしまった。織田信長は官兵衛も謀反したと思い込み官兵衛の嫡男で人質となっていた松寿丸を殺すように命じた。半兵衛は官兵衛を信じて松寿丸を五明の地に匿ったのである。やがて官兵衛が救出されると松寿丸も許された。その後この地を去るにあたり境内に銀杏の木を植えたと言われている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2014年8月14日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
↑ | 「日本城郭全集」他 |