福山城
(ふくやまじょう)

国指定史跡、百名城

広島県福山市丸之内


▲ 福山城天守閣。昭和二十年(1945)の空襲で焼け落ちてしまったが、
昭和四十一年(1966)に福山城博物館として外観復元された。

徳川幕府、
       西国鎮衛の城

 関ヶ原合戦(慶長五年/1600)後、安芸・備後二ヵ国四十九万八千余石の大禄を得て広島城に入った福島正則であったが、元和三年(1617)の水害で崩れた城の石垣を幕府の許可を得ずに修復したということで、元和五年(1619)に芸備二ヵ国を召し上げられて信州川中島四万四千石に蟄居させられてしまった。

 これは外様大名に対する幕府権力の絶対性を知らしめた一件となった。たとえ大禄の大々名といえども幕府を軽んずればこうなるのだと。

 だからといって次から次へと外様大名を潰しにかかるわけにもいかない。反幕で結束されては天下は再び戦乱の世に逆戻りである。

 そこで、幕府は武略に優れた譜代の重臣を福島家改易によって空いた備後国へ封じ、西国・九州に追いやった外様大名たちを監視、そして押さえ込むことにしたのである。その適任者として選ばれたのが大和郡山城(六万石)の水野勝成で、元和五年八月に備後十万石に加増・転封となったのであった。

 水野勝成の叔母は家康の生母であり、また秀忠とは乳兄弟でもあった。天正九年(1581)の高天神城の戦いで一番首をあげ、関ヶ原合戦では大垣城攻めで活躍、大坂夏の陣では先鋒をつとめるなどした歴戦のつわものであった。

 さて、備後の主城はそれまで神辺城(福山市神辺町)であったが、水野勝成は鞆の津に上陸して鞆城に入ったまま神辺城に入ろうとしなかった。勝成は瀬戸内海と山陽道の両方を押さえ得る適地を探したのである。

 その適地として勝成が選んだのがここ福山である。当時はいくつかの社寺が建てられていた芦田川デルタの丘であったが、勝成はこれらを移して新城の建築に取りかかった。元和六年(1620)の春である。

 築城にあたっては神辺城の石垣や建物が移され、また将軍秀忠の命により伏見桃山城の櫓や門なども移築された。幕府による協力もあってこの年の暮れにはほとんどの普請が終わり、元和八年(1622)八月には天守をはじめとする諸櫓が完成した。

 城名は「鉄覆山朱雀院久松城(てつおうざんすざくいんひさまつじょう)」と呼ばれた。鉄覆山は天守閣の背面を鉄板で覆っていたからとも云われ、また天守閣が南面していることから南を意味する朱雀が当てられたと云われている。久松は「松の久しく」の意で、武運長久を願ったものとされている。福山の地名も城の完成と城下町の発展とともに呼ばれるようになったらしい。

 城の完成とともに城下町の繁栄にも力が注がれた。近代的な設備としての上水道が廻らされ、また福山湾の埋立てによって土地の造成が推し進められて土地面積が倍増している。これは水野勝成が武辺一点張りの武将ではなく、民政にも意を注ぐ明君であったといえるだろう。

 寛永十四年(1637)、七十四歳となった勝成は嫡男勝俊と嫡孫勝貞と共に「島原の乱」に出陣した。その二年後、寛永十六年(1639)勝俊に家督を譲り隠居した。慶安四年(1651)三月、没。享年八十八歳であった。

 二代勝俊は父と共に備後入りしてからは鞆城を居城とし、家督継承によって福山城主となった。島原の乱では先頭第一の功をたてた。承応四年(1655)二月、江戸桜田邸にて没、五十八歳であった。殉死者七人が出た。

 三代勝貞は十四歳で島原の乱に出陣、父と共に先頭第一の功をたてた。家督相続後八年にして病没。寛文二年(1662)、三十八歳であった。

 四代勝種は三歳で家督を継ぎ、ほとんどを江戸で過ごす。元禄十年(1697)、津山城受取りのために帰藩するが、突然に発病急死してしまった。享年三十七歳であった。

 五代勝ュ(かつみね)は父の急死によって生後半年で家督を継承した。翌年、江戸に入り将軍に拝謁するも病死してしまった。長旅と儀式づくめの生活に一歳そこそこの幼児が耐えられるものではなかったのであろう。

 しかし、幕府からは無情にもお家断絶、城明渡しが命ぜられた。当然、福山城下は大騒ぎとなった。番頭水野平内らが籠城を主張するなどしたが、家老の水野玄蕃らの説得によって事無きをえた。

 その後、代官が陣屋を構えて藩領を治めたが、元禄十三年(1700)正月に松平忠雅が十万石で封ぜられた。出羽山形十万石からの移封である。治世十一年、この間に町年寄を置いた。宝永七年(1710)、伊勢桑名に転封となった。

 松平氏の後、阿部正邦が下野宇都宮から入封した。以後十代続いて明治を迎えることになる。

 四代正倫の頃は天明の大飢饉など、旱魃が多く発生し、激しい百姓一揆が領内でも起きている。正倫は奸臣や強欲な庄屋を罷免して百姓の願いを聞き入れて一揆を鎮めた。民をおもう明君であったようだ。

 代々の藩主の多くは老中などの幕閣を務めている。七代正弘もペリー来航時に老中職にあり、攘夷論の沸騰するなかにあって安政元年(1854)に日米和親条約を締結して開港に踏み切ったことで知られる。

 幕末の動乱期、九代正方は二度にわたる長州征伐に従軍したが、その心労が祟ってか、慶応三年(1867)十一月に没した。しかし、大政奉還に続き、長州が討幕の兵を挙げるなどして世情はただならぬ様相を呈しており、静観のために藩主の喪は秘された。

 翌慶応四年正月、長州軍が福山城に迫った。城内では亡き藩主の棺を安置して重臣らの協議が重ねられた。いうまでもなく勤皇か佐幕かの議論であるが、なかなかまとまらないのだ。そのうちに長州軍の砲撃が始まった。砲弾は天守にも命中、ここにおいて藩論は勤皇に決したのであった。

 その後、討幕軍に加わって各地を転戦、函館にまで兵を進めた。十代藩主となった正桓(まさたけ)は広島藩主浅野長勲の弟で正方の養子として五月に迎えられた。

 明治二年(1869)版籍奉還、同四年廃藩置県、同六年に福山城は民間に払い下げられることとなった。しかし、天守や伏見櫓などは買い手がつかず、幸いにも取り壊しを免れて残り続けた。

 残念ながら天守は昭和二十年(1945)八月八日の空襲で炎上崩壊してしまった。現在の天守は昭和四十一年(1966)に鉄筋コンクリート造りによって外観復元されたものである。

▲ 本丸東南隅の「月見櫓」。明治初期に取り壊されたが、昭和四
十一年(1966)に鉄筋コンクリート造りによって外観復元された。


▲ 本丸への入口「筋鉄御門」。伏見城からの移築と伝わる。国の重要文化財となっている。

▲ 本丸西南隅の「伏見櫓」。将軍秀忠の命により伏見城から移築された。国の重要文化財となっている。

▲ 本丸南側の「御湯殿」。伏見城内の秀吉の居館が本丸に移されたが、それに付随した建造物であった。昭和二十年の空襲で焼失したが、昭和四十一年に天守閣とともに復元された。

▲ 本丸西側の「鐘櫓」。鐘と太鼓で時を告げていたといわれている。昭和五十四年(1979)に改修工事が実施され、市の重要文化財となっている。

▲ 本丸東側の「鏡櫓」。明治六年に取り壊されたが、昭和四十八年(1973)に外観復元された。

▲ 本丸西側に残る井戸「黄金水」。渇水時にも枯れることなく水をたたえていたという。

▲ 本丸天守台の石垣。隙間なく間詰石が詰められた打込接の石垣。

▲ 天守閣から南側を見た風景である。本丸のすぐ目の前は山陽新幹線の福山駅のホームとなっている。

▲ 本丸北西側の小丘「小丸山」。搦手の櫓用地であったが城郭化されずにおかれた。慶応四年(1868)、長州軍が迫った時、この小丸山に福山の少年隊が陣取り、突入してきた長州兵を鉄砲で撃退した。

----備考----
訪問年月日 2009年1月
主要参考資料 「日本城郭総覧」他

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