京都御所
(きょうとごしょ)

京都府京都市上京区京都御苑


▲京都御所は平安遷都によって造営された大内裏が衰退し、里内裏のひとつで
あった当所が元弘元年(1331)の光厳天皇即位以来御所として明治まで続いた。
(写真・京都御所紫宸殿。)

近代日本の幕開け

 桓武天皇が平城京を離れ、長岡京へ遷都したのが延暦三年(784)である。さらに十年後の延暦十三年(794)に平安京へ遷都した。

 この時に造営された大内裏(儀式、行事、各行政施設の殿舎及び天皇の居住する内裏のある区域)は現在の京都御所の西約1.6kmほどの場所にあり、すでに市街化してその名残を示すものは石標以外何もない。大内裏は火災や天災などで被害が起きた場合にはその都度再建復興されたが、その間天皇は貴族の邸宅などを仮の内裏とした。

 この仮の内裏を里内裏という。大内裏や内裏の再建復興も年を経るに従い縮小または廃されるものもあって平安後期にはその跡地は荒地となり、内野と呼ばれたという。

 里内裏のひとつに土御門東洞院殿がある。元々は権大納言藤原邦綱の邸宅であるが、邦綱が平清盛との関係が強かったためか、当時の六条天皇や高倉天皇が里内裏としたことがある。

 元弘元年(1331)に後醍醐天皇が京を脱して笠置山(笠置城)で倒幕の挙兵に踏み切ると光厳天皇が即位した。光厳天皇は土御門東洞院殿を里内裏とした。以後、歴代の天皇はここを内裏(御所)として明治に至ることになる。

 この間、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康らによって整備され、敷地も拡大された。江戸期に入ってからも火災焼失による再建が繰り返され、特に寛政度(1790)における再建の際には老中松平定信が総奉行となり、有職故実家(時代考証研究)浦松固禅光世の著した平安内裏の考証を取り入れた復古様式で再建された。

 この内裏も嘉永七年(1853)に焼失してしまうが安政二年(1855)に寛政度の内裏を復元するかたちで再建された。

 元治元年(1864)、尊王攘夷の急先鋒であった長州藩による御所周辺における戦闘が勃発した。御所西側の蛤御門には今も当時の弾痕が残っている。

 慶応三年(1867)十月の大政奉還後、幕府に替わる新体制に向けての動きが活発となり、御所内に於ける朝議も活発となった。慶応三年十二月九日(1868/1/3)にはついに王政復古の大号令が御所に於いて発せられた。引き続き御所内の小御所に於いて明治天皇臨席のもとに最初の会議が開かれ徳川氏の辞官納地が決定された。

 慶応四年(1868)三月には紫宸殿において五箇条の御誓文が発せられた。「万機公論に決すべし」で始まるこの御誓文は明治新政府の基本方針となり、その理念は現代に於いても大いに通ずるものである。

 明治二年(1869)、明治天皇が東京行幸となり、京都御所を離れた。以後、現在に至るまで江戸城跡が皇居として続くことになる。

 明治十年(1877)、京都を訪れた明治天皇は京都御所の荒廃した様子を嘆き、宮内省に対して御所の保存と旧観の維持を命じた。

 現在では京都御所、仙洞御所、京都大宮御所は宮内庁、周辺の京都御苑と呼ばれる区域(国民公園)は環境省の管理下にある。


▲小御所。慶応三年(1868)王政復古の大号令の後、最初の会議がここで開かれ、徳川家の辞官納地が決せられた。

▲蛤御門。元治元年(1864)七月に起きた禁門の変の舞台となった場所である。変当時、会津藩と桑名藩がこの門を守り、長州藩が押し寄せた。

▲京都御苑の東門である清和院門から入ると最初に見えるのが御所東の建春門である。

▲御所南側の建礼門。

▲御所南西角の「清水谷家の椋」。禁門の変の際に長州藩遊撃隊総督来島又兵衛がこの付近で戦死したと伝えられている。

▲蛤御門。

▲蛤御門の弾痕。禁門の変における戦闘の傷跡である。

▲蛤御門の碑。

▲御所西側には三つの門がある。これは南の宣秋門である。

▲宣秋門の北隣の清所門。一般の見学者はこの門から入り、手荷物の検査を受けることになる。

▲御所内から見た宣秋門。

▲見学コースにある案内図。

▲諸大夫の間。参内者の控えの間である。

▲新御車寄。

▲紫宸殿。御所内において最も格式の高い正殿で、即位礼などの重要な儀式が行われた。五箇条の御誓文の舞台でもある。

▲御常御殿前の御内庭。

▲御常御殿とその周囲の甍群。

▲御所西側外の築地塀。

▲御所南東に隣接する大宮御所。現在では国賓の宿所として用いられている。

▲京都御苑東門である清和院門。この外側に駐車場がある。


----備考----
訪問年月日 2018年8月18日
主要参考資料 「京都御所パンフ」他

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