(まるがめじょう)
国指定史跡・百名城
香川県丸亀市一番丁
▲丸亀城は讃岐一国の太守となった生駒氏によって西讃岐の要として築かれた
城である。生駒氏の後は丸亀藩として山崎氏そして京極氏が城主となった。
(写真・丸亀城天守。現存12天守のひとつ。)
西讃の要・石の城
応仁(1467-69)の頃、讃岐守護であった室町幕府の管領細川勝元の家臣奈良元安が現地支配のため、宇多津に聖通寺城を築いて居城とした。この奈良氏が出城として亀山に砦を築いたのが丸亀城の創始となる。 本格的に当地に城が築かれることになるのは天正十五年(1587)に讃岐一国十七万六千石を与えられ、高松城を築いた生駒親正が慶長二年(1597)に西讃岐支配のために着手したことによる。工事は六年の歳月をかけ、全体を石垣で固めた稀に見る壮観な石の城が出来上がった。 築城途中の慶長五年(1600)の関ケ原合戦では西軍に協力した親正は剃髪し、東軍に付いた嫡男一正が家督を継いだ。慶長七年(1602)、一正は高松城主となり、丸亀城には城代を置いて西讃岐の要とした。 高松藩三代藩主生駒正俊のとき、元和元年(1615)の一国一城令により丸亀城が廃城となる。しかし、正俊は万一に備えて石垣に土を塗り、樹木を植えて城を覆い隠し、破却をしなかったと言われている。四代藩主高俊の寛永十七年(1640)、生駒騒動により生駒家は改易となる。 寛永十八年(1641)、山崎家治が肥後国富岡より西讃岐五万石を拝領して入部した。丸亀藩の始まりである。家治は丸亀城の復旧を幕府に願い出た。寛永二十年(1643)には参勤交代の猶予と銀三百貫を得て復旧工事に着手した。二代藩主俊家の慶安二年(1649)にも幕府は城の修復と普請の指示を出している。明暦三年(1657)、三代治頼が八歳で早世。無嗣断絶となる。 明暦四年(1658)、播磨龍野(龍野城)より京極高和が六万石で入部。以後、七代続いて明治に至る。 |
▲大手口。正面が二の門、枡形を右に行くと二の門(太鼓門)である。山上に天守が見える。 |
▲丸亀城は石の城と形容されるように四囲を石垣で固めた平山城である。 |
▲丸亀城案内図。 |
▲藩主玄関先御門。藩主居館の門で御殿表門とも呼ばれる。 |
▲御殿表門は江戸初期の建築で県の文化財となっている。 |
▲大手一の門。江戸前期の建築で国指定文化財である。 |
▲大手二の門。大手枡形の外門である。 |
▲大手口の内堀。 |
▲三の丸の高石垣。20m以上の高さと「扇の勾配」は見事である。 |
▲見返り坂。急こう配の登り坂が三の丸へと続く。 |
▲三の丸。 |
▲三の丸から見た讃岐富士。 |
▲二の丸大手の出枡形。 |
▲二の丸。 |
▲本丸入口。 |
▲本丸。 |
▲天守の説明板。 |
▲天守。現存木造天守12に数えられる貴重な天守である。 |
▲本丸石垣。 |
▲搦手口へ廻ると石垣の城の醍醐味を感じられる。 |
▲石垣また石垣が続く搦手口。 |
▲壮観な高石垣。 |
▲搦手口の内堀。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2018年5月2日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
〃 | 「いにしえのときを刻む丸亀城」他 |