(たかまつじょう)
国指定史跡・百名城
香川県高松市玉藻町2
▲高松城は讃岐一国を与えられた生駒親正により、その府城として築かれ
た水城である。生駒氏四代の後、水戸徳川氏の分家松平頼重が讃岐半国
十二万石の藩主として入国した。以来、親藩として十一代続いて明治に至った。
(写真・高松城月見櫓と水手御門。)
波上の城
豊臣秀吉の四国平定(天正十三年/1585)によって讃岐には仙石秀久が入部して聖通寺城(宇多津町)を居城とした。しかし、九州征伐の先陣を任された秀久は戸次川の戦いで島津勢に大敗を喫し、秀吉の勘気に触れて改易、高野山へ追放された。 替わって讃岐国を与えられたのが生駒親正であった。天正十五年(1587)、讃岐一国十七万三千石に封ぜられた親正は当初、引田城(東かがわ市)を居城としたがすぐに聖通寺城に移った。しかし、いずれも親正の意にそぐわなかったようで、翌年から新たに玉藻浦へ築城を始めた。天正十八年(1590)に完成したこの城が高松城である。瀬戸内海に面して築かれた高松城は日本三大水城(今治城、中津城、高松城)に数えられ、海上からは波の上に城が浮かんで見えるようであったという。縄張りは黒田孝高や藤堂高虎らが手掛けたとも言われている。 慶長五年(1600)の関ケ原合戦では嫡男一正が東軍に属したことで所領は安堵され、正俊、高俊と四代続いた。 寛永十七年(1640)、家臣間の対立による生駒騒動により改易、高俊は出羽国矢島一万石に減封された。 翌年、西讃岐五万石を拝領した山崎家治が丸亀城に入り、丸亀藩が立藩された。東讃岐にはその翌年(寛永十九年/1642)に水戸の徳川頼房(水戸城)の長男松平頼重が十二万石で高松城に入った。 高松松平家は水戸徳川家の連枝として会津松平家、彦根井伊家と共に江戸城溜詰という高い家格で遇され、西国諸藩の監察役を務めたと言われている。また、初代藩主頼重は城下に上水道設備を施したことでも知られる。その後、十一代続いて明治に至る。 幕末、宗家水戸藩は尊王であったが、藩主頼聰(よりとし)の正室が彦根井伊家であったことや将軍慶喜とも従兄弟でもあったために高松藩は佐幕の立場を取り続けた。鳥羽伏見の戦いでも幕府軍にあったため、朝敵となったが、その後謝罪恭順して高松城は土佐藩主力の新政府軍に接収された。明治二年(1869)、版籍奉還により廃城となる。
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▲本丸天守台。かつての天守は三重四階地下一階の南蛮造りで四国最大の規模であったという。 |
▲艮櫓。三重三階の立派な隅櫓で、東の丸にあったものを現在地に移築したものである。 |
▲玉藻公園駐車場に入ると正面に三層三階の艮櫓が出迎えてくれる。 |
▲旭門と旭橋。 |
▲旭橋は門に向かって直角ではなく、斜めに架けられている。 |
▲公園入口に立つの案内図。 |
▲旭橋から見た中堀。 |
▲旭門内側の枡形。 |
▲城内側から見た艮櫓。延宝5年(1677)完成。東の丸北東に建てられていたものを昭和40年(1965)より2年をかけて現在地(旧太鼓櫓跡)に移築復元された。 |
▲桜御門跡の石垣。 |
▲披雲閣。旧松平家高松別邸で大正6年(1917)に完成した。藩政期には当所に政庁、御殿が建てられていた。 |
▲北の丸の月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓。 |
▲内側から見た月見櫓。延宝4年(1676)完成。 |
▲水手御門。かつて門の外は海であり、船から直接城内に入ることができた。 |
▲内堀と二の丸石垣。 |
▲二の丸入口の鉄門跡。 |
▲二の丸と本丸を繋ぐ唯一の通路となる「鞘橋」。 |
▲本丸虎口の枡形石垣。 |
▲本丸の天守台。 |
▲天守台内側。 |
▲天守台から見た鞘橋と二の丸。 |
▲天守台。平成17年(2005)から8年間の修復工事が行われた。 |
▲天守復元図。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2018年5月3日 |
主要参考資料 | 「日本城郭総覧」 |
〃 | 現地パンフ・他 |