「白布の武将 大谷吉継」 作・ 管理人


二章、 旗揚げ 

 吉継は夜を徹して垂井に戻り、翌朝、平塚為広に佐和山での一件を話した。
 「そうでござったか」
 為広はしばし考える風であったが、やがて、
 「かかる大合戦に参陣できるとは武士として願っても無きことでござる。この為広、小禄ながら大輪の死に花を戦場に咲かせてみせましょうぞ」
 と吉継とともに三成に味方することを快諾した。
 続いて引き連れてきた一族家臣及び全軍を平塚館の南側にある南宮社の社殿前に集め、吉継の嫡子大学吉勝、次子木下山城守頼継、近臣の三浦喜太夫、湯浅五助、橋本久八郎をはじめ全将兵を前にして、三成とともに大坂城の秀頼を頂き徳川家康を討伐する旨を伝えた。
 「この日をもって、わしは吉継を改め吉隆と名乗ることとする。豊家隆盛のためにこの大事に臨むわが心意気を汲むべし」
 と力強く言い放った。
 これが家康討伐のための最初の軍勢による旗揚げとなった。

 この日、佐和山城から安国寺恵瓊(えけい)への密使八十島道与が大坂に向かっている。道与は翌日の夜に大坂城下の恵瓊の屋敷に入った。
 恵瓊は密書を受け取るとその場で慌ただしく眼を通した。読み終えた恵瓊の顔に会心の笑みが浮かんだ。
 「治部少輔がようよう腰を上げたの、道与。わしは明日、佐和山へ向けてここを発つと伝えてくれい」
 恵瓊は次の日、少数の供廻りを連れて大坂の屋敷を発ち、京、草津と泊を重ねて十二日に佐和山の城門をくぐった。
 吉継改め吉隆と平塚為広はこの前日に軍勢を率いて佐和山城へ入っていた。この日は吉隆、為広、三成とその重臣島左近勝猛が恵瓊の一行を出迎えた。
 城内は甲冑姿の兵が慌ただしく行き来しており、兵糧を運び込む者、武具の手入れをする者と、いまだ平穏の畿内にあってこの城だけは戦陣さながらの様相を呈してきていた。三成は吉隆らの軍勢が佐和山に到着すると同時に領内へ陣触れして兵を集めつつあったのだ。
 こうした喧騒のなかに平服姿の恵瓊の一行が到着したのである。
 三成らの出迎えを受けた恵瓊は城内を見渡しながら、
 「久方ぶりの戦じゃ。人とは争うために生まれてきたようなものよ。こうした光景を眼にすると歳が若返るわい」
 と、僧侶でありながら六万石の大名でもある六十三歳の恵瓊は眼を輝かせた。

 この日の夜、佐和山城の天守の一室で三成と吉隆は恵瓊を交えて大坂方挙兵の具体的な打ち合わせに入った。
 三成は天正十三年に秀吉が関白に就任した際、従五位下治部少輔に任ぜられて以来、豊臣政権下で奉行職を続けてきている。企画、段取り、遂行とそれに伴う事務に関する処理能力には余人にない才能をもっている。その三成の計画である。抜かりのあろうはずがない。吉隆や恵瓊が新たに意見を差しはさむ必要がないほどに完璧に段取りされていた。
 まず、大坂方への協力要請の使者の派遣である。安芸広島(広島城)百二十万五千石の毛利輝元、出雲富田十四万二千石の吉川広家、備前岡山五十七万四千石でこのとき大坂にいた宇喜多秀家のもとへそれぞれ使者が送られ、勝敗の帰趨を決する毛利に対しては恵瓊の書状を添えるというものであった。
 それから、家康討伐の前進拠点となる岐阜城(岐阜城)の織田秀信に対しても使者が送られる。織田秀信は信長の嫡孫で幼名は三法師丸。信長亡き後の後継者会議として知られる清州会議で次三男の信雄、信孝の対立をよそに秀吉によって抱かれて出てきたのが当時三歳の三法師丸であった。以来、秀吉に保護されて八年前の文禄元年に岐阜十二万三千石の城主として封ぜられていた。織田氏という貴種意識が強く、体面、体裁にこだわる性で、このときも会津征伐に出陣するためにあれこれと行装の準備に忙しく、七月一日に出発の予定が十二日になってもその行装の派手さが物足りないのか腰を上げないでいたのである。その程度の男であるから濃尾両国を加増するといえばたやすく味方に引き入れることができると、三成は見ていたのである。
 次に、佐和山の南三里を琵琶湖に流れ込んでいる愛知川に関所を設けて、関東に向かって中山道を下って来る軍兵をここで食い止めるというものである。この任務には三成の兄正澄が手勢を率いてあたることになっており、すでに準備を整えて下知を待つばかりとなっていた。
 他に北陸方面の大名の押さえとして一軍を催すことになり、これには敦賀城主である吉隆があたる。北陸方面の徳川方の大名というのは加賀金沢(金沢城)八十三万五千石の前田利長である。五大老のひとり前田利家の嫡男で、利家亡き後は家禄とともに大老職も引き継いで今日に至っている。

 前田利家といえば秀吉とは青年時代から艱難を共にしてきた豊臣政権の重鎮である。秀吉亡き後は秀頼の補佐役として大坂城(大坂城)にあり、政務役として伏見城にあった徳川家康に拮抗しうる唯一の人物であった。その利家が昨年の閏三月に没した。家康にしてみれば目の上の大きな瘤がとれた思いであったろう。それに加えて利家の葬儀の夜に、朝鮮の役の働きについて不利な報告を軍奉行であった三成や小西行長らによって秀吉に讒言された遺恨を晴らそうと先の七将による三成襲撃計画という事件もあって、三成を失脚に追い込むことにも成功して、大坂には家康に面と向かって対抗できうる人物はいなくなることになった。
 その後は、家康はなにくわぬ顔で伏見から大坂城西之丸に入り、天下を俯瞰しながら諸大名にたいして威したりすかしたりして抱き込み、あるいは畏怖せしめながら大坂方の切り崩しに取り掛かっていたのである。
 その槍玉に上げられたのが利家亡き後の前田家である。老獪な家康にとって二代目の坊ちゃん大名を脅すことは赤子の手を捻るのと同じである。家康はこの二代目利長に領国の加賀に戻るようにすすめた。利長には父利家から引き継いだ大老職と秀頼の後見人という役目があったが、家康の、
 「帰国せよ」
 の一言に抗弁する術もなく大坂を後にする以外になかった。家康のいじめはこの程度では終わらない。
 「帰国した利長は内府に遺恨を抱き、謀反を企てている」
 という噂をひろめ、これを言いがかりにして加賀攻めを公表するにいたる。利長にしてみると何がどうなっているのか判らぬままに家康との対決を迫られ、抗戦か和睦かの選択を強いられることになった。和睦とは言うまでもなく前田家が家康に対して屈服することを意味する。結局、利長は母の芳春院を人質に出し、家康に屈服することで前田家の存続をはかる道を選んだ。家康の思惑通りに終始した事件であった。

 こうした経緯から加賀の前田家は大坂方挙兵となっても動かず、関東方の先鋒として北の脅威になることは必至であったのだ。しかもニ、三万の動員兵力を持っている大国である。この先、大坂方が大挙して家康討伐のために東へ移動することになると、北国口の押さえは戦略的に最も重要なものとなってくる。北国口が破られると、東に向かった大坂方の背後が脅かされることになるからである。半端な武将をこの方面に充てることは危険である。三成は最も信頼のおける吉隆にこの北国口の押さえを頼むことにしたのである。
 大坂そのものを押さえるためには三成の重臣島左近勝猛を大将に三百ほどの小軍勢を急行させ、現地で豊臣の旗本勢を招集して治安維持の任にあたらせる。とくに大名屋敷の取り締まりを厳重にするとともに会津征伐のために関東へ下向している大名の妻子をまとめて大坂城に収容するということが最重要任務として含まれている。
 三成はそこまで一息に説明し終わると恵瓊の方を向いて、
 「安芸中納言殿の大坂着陣と諸将の参着をまってまずは伏見城を速やかに落とし、その後は伊勢路、美濃路の二手を邁進して関東方の諸城を屠りつつ尾張へ押し出すことと致し、その後は内府と関東方の出方に応ずることと致したい」
 と開戦初期の作戦構想を述べた。安芸中納言とは毛利輝元のことである。
 伏見城は家康が三成の挙兵に備えて京阪に残した唯一の拠点である。三成挙兵となればこの城が最初の修羅場になることは当然予想された。家康は今川の人質時代から側近く仕えてきた最も信頼のおける直臣、鳥居元忠にこの城の守備を任せた。城、人ともに三成と大坂方にとって緒戦を飾るに不足のないものであった。言い換えれば家康は挙兵のための好餌を大坂方の目の前に置いて東下して行ったと言える。
 それはともかく吉隆、恵瓊の二人は三成の戦略構想を一通り腕組みして聞いていた。恵瓊は時折大きく頷き、三成の構想に同意の意思を表していた。
 「いずれにしても中納言殿の帰趨に豊臣家の将来はかかってござる。ここにいたって恵瓊殿の力添えを得たること、この一事をもって我らが一挙は成ったも同然。このこと終生忘れはしませぬぞ」
 と三成は深々と頭を下げた。
 恵瓊はまた大きく頷いて言った。
 「豊臣の天下が今日あるは、織田信長が明智の謀反に斃れたおり、備中高松の陣において毛利公が太閤様との和議に応じられたればこそである。いわば豊臣の天下を守るは毛利の立場を守ることになる。毛利公のお味方あるは間違いなきことであろう」
 三成もこの辺の経緯は熟知しており、恵瓊がその裏で奔走していたということも知っている。
 時折、三人の居る開け放たれた天守の一室を夜風が心地よく吹き抜けてゆく。
 恵瓊は語調を強めて、
 「されど、わしとて童の使いではない。ただで秀頼様の御為に大坂へ出て来いとは言えぬでのう」
 とその辺のところはどうなっているのかと三成の顔を覗き込んだ。
 「安芸中納言殿にはわれらの総帥として采配を振るっていただき、戦勝のあかつきには領国七ヶ国に加えて山陰二ヶ国、筑前一国をその自領に加えていただくつもりでござる」
 と三成は恵瓊にこたえた。
 「それだけでござるか」
 恵瓊は三成を見据えた。
 「いかにも」
 三成はこの僧であるのか武士であるのか得体の知れぬ男、恵瓊が毛利への引出物に他に何を要求してくるのか恐ろしくなった。
 「治部少輔殿、領国など家来どもを養っていくだけあれば充分でござる。それより、豊臣と毛利は相見互いであるという証が欲しいのでござるよ」
 恵瓊が三成の挙兵に加担する決意をするに至ったのにはそれなりの意図があってのことである。
 秀吉亡き後の天下は、黙っておれば家康のものとなると恵瓊は今後の天下情勢を分析、予測していた。家康は去年、加賀の前田家を脅して骨抜きにしてしまい、今度は上杉を潰しにかかっている。いずれも百万石規模の大大名である。恵瓊の脳裏には家康が脅威となる大大名を一つづつ排除して、最後には豊臣家そのものを滅ぼしてしまうであろうという未来図が描かれていた。
 上杉征伐の後は毛利に対してその矛先を向けてくるであろうことは当然の成り行きとして予測できた。ここで三成の挙兵がなければ、毛利家は家康の膝下にひざまずき屈辱的な条件で和議を請うより生き残る道はなくなってしまうであろう。
 しかし、家康を倒せば天下は毛利のものにできる。老身の恵瓊は三成に挙兵の意志ありとみると、人生最後の賭け仕事として今一度天下を舞台に踊り舞いたいという衝動が沸き起こり、じっとしておれず、こうして佐和山城に来ているのである。
 策謀家の宿命とでもいえようか。おとなしくしておれば六万石の大名として安穏な生涯を終えることができたであろうに。
 恵瓊は三成を見据えたまま、
 「毛利公には豊臣方の総大将として大坂城西ノ丸に入り、幼君秀頼様を守護いたすことに異存はない。されど内府と対決する以上は一大老のままでは存分の働きができぬではござらぬか。大老職筆頭、幼君後見役の任を引き受けるということにしてもらいたい」
 三成は言葉もなく黙っている。
 これでは徳川に毛利が取って代わるだけではないか。自分のすべてを賭けた挙兵がこの恵瓊という策謀家と毛利に利用されようとしている。
 三成は立ち上がって開け放たれた格子窓に近寄り、大きく夜気を吸い込んだ。琵琶湖が月明に照らされて静まっていた。そして吉隆の意見を求めるかのように振り向いた。吉隆は一言も発せず端座したままである。
 「佐吉、恵瓊殿の申される通りに致せ」
 吉隆は戦後の天下情勢を気にして恵瓊の要求に返事をしかねている三成に腹が立った。今はただ勝つことのみに全力を尽くすべきなのである。
 三成は即座に、
 「恵瓊殿、心得た」
 と戸惑いを吹っ切るように力強く言った。

 この夜のうちに三成は各方面に向けて大坂方への協力要請の使者を走らせると、すでに戦闘準備のなった兄正澄と島左近の一隊も夜明け前に佐和山を出発させた。
 恵瓊も翌朝早くに佐和山城を出た。平塚為広の軍勢だけが佐和山に残り、後日三成とともに大坂へ向かうことになる。
 恵瓊は大坂に戻ると、すでに出雲を出発して会津征伐に参陣するために大坂へ近づきつつある吉川広家の説得工作に取り掛かった。吉川家は小早川家とともに毛利の分家として大きな力を持っている。毛利本家に吉川、小早川の石高を合わせると二百万石を越え、徳川に並ぶ大勢力になる。
 吉隆は恵瓊を見送った後、兵をまとめて北国口の防備にあたるために居城の敦賀城へ戻って行った。
 佐和山城を出る際、吉隆は三成に、
 「人質の一件、今一度考え直したがよいのではないか」
 と静かに言った。
 吉隆は諸大名の妻子を大坂城に拘束するという三成の方策が気にかかっていたのである。そのようなことをすれば、関東へ下向している諸大名の反感を助長することになる。ただでさえ、三成の評判はよくない。とくに戦場の第一線で秀吉の手足となって槍をとってきた加藤清正や福島正則らの三成に対する感情は、先の襲撃騒ぎにみられるように尋常なものではない。
 「心得た。おぬしの言う通りにする」
 と三成はにこやかにこたえた。
 「北国口の押さえは案ずるな。前田の兵は一人たりとも畿内に近づけさせはせぬ」
 三成は大きくうなづいて、
 「いずれ、内府との決戦の日がこよう。そのときは遅るるなよ」
 と吉隆の手を力強く握りしめ、目には涙があふれんばかりであった。

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