亀ヶ城
(かめがじょう)

       北設楽郡東栄町大字三輪     


▲ 虎口部分から見た亀ヶ城の主郭部分である。正面に樹齢数百年
と思われる古木と祠がある。その背後には城址碑が建つ。

山峡の戦国

 亀ヶ城跡の残る城山(亀山)の東南麓に長峯神社がある。その神社の永禄七年(1564)の棟札に設楽郡振草郷長峰村・伊藤右京貞守という名が記されている。

 この事は、戦国期に長峰村の有力者として伊藤右京貞守という武士が居たということである。そうなると、この武士はその神社の裏山に築かれた城砦、つまり亀ヶ城の主でもあったという事になろうか。

 「東栄町史」では永禄元年(1558)七月四日付けの今川義元の書状(早稲田大学図書館所蔵)を紹介して、この地域の小土豪の姿を映し出そうとしている。この書状の宛名が伊東右京亮であり、文中には貞守として出ているのである。伊東と伊藤の違いはあるが、時期的にみても長峯神社棟札の伊藤右京貞守と同一人物であることに間違いはないだろうとされる。

 であるならば、この書状の内容が気になってくる。「去正月、河合源三郎令逆心敵引入処、一類等奥山能登守かたへ相渡、無二令味方段神妙也、又至于三月、菅沼大膳亮於源三郎相催、屋敷構江攻入之刻、尽粉骨、甚以忠節之至也」
 これは義元書状の前半部分であるが、まさにこの山間の地で生死を賭けた戦いがあったことを物語っている。

 いま少し、書状の内側に立ち入ってみたい。

 去る正月(永禄元年)に河合源三郎が逆心をもって敵を引入れた。つまり、謀反である。この当時、今川にとっての敵とは織田信長のことである。事実、この数年前(弘治二年/1556)には菅沼氏が織田・今川に分れての骨肉の戦い(布里合戦雨山合戦)があったばかりである。河合源三郎とは足込(川合砦)の川合源三郎のことであろう。

 この事態に危険を感じた伊藤貞守は一類(おそらく女子供たち)を遠江の奥山能登守(高根城主)方へ預けた。これは今川方への忠節を示したということであろう。

 そして三月、河合源三郎が菅沼大膳亮とともに貞守の居所を攻めた。菅沼大膳亮とは「東栄町史」では田峯城の菅沼貞継としているが、貞継は布里合戦で討死しているのでその父定広のことかもしれない。

 ともかく、貞守の居所であったと思われるここ亀ヶ城が合戦の舞台であったという可能性が高くなる。

 しかし、古城は黙して語らず。私たちは推測に推測を重ねることでしか山峡の戦国時代を垣間見ることはできないのである。

▲虎口付近に見られる石積。

▲主郭への虎口。
 ▲ 昭和27年に建てられた城址碑。
▲ 主郭西側の平坦地に残る堀切跡。敵兵の来襲を防ぐほどの幅も深さもないが、柵や逆茂木が並べられた防御線と思われる。

▲ 城址の東南麓にある長峯神社。



----備考----
訪問年月日 2009年2月15日
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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