見付端城
(みつけはじょう)

                   磐田市見付           

見付端城址碑
▲見付端城は今川了俊の子孫堀越氏が拠点とした城であったが、戦
国争乱のなかで争奪の渦中に置かれて城主が変転した城であった。 
(写真・磐田市見付交流センター入口に建つ城址碑)

遠江今川氏の城

 古くより遠江国府が置かれ、有力な実効支配のないまま廃れ、荒れ果てていた当地に乗り込み、城館を構えたのが今川了俊であった。ときは至徳元年(1384)足利将軍義満の時代であった。了俊は幕府においても要職九州探題を二十五年間も続けるほどの有能な幕臣でもあった。

 その子孫が遠江今川氏と呼ばれるもので堀越氏のことである。了俊の曾孫範将は長禄三年(1459)、遠江守護となった斯波氏に対抗するため、国人を糾合した。これは「中遠一揆」と呼ばれ、範将はこの戦いで敗死してしまう。欠所となった範将の所領は斯波氏被官の狩野七郎右衛門尉のものとなり、見付にいた範将の子貞延らは追われてしまった。

 この後、斯波方の内紛が続き、七郎右衛門尉は同族の加賀守に討たれ、さらに加賀守に代わって狩野宮内少輔が威を振るった。

 文明六年(1474)、今川義忠は狩野氏討伐のために見付を攻め、これを滅ぼした。狩野氏に追われて義忠のもとへ身を寄せていた堀越貞延は旧地に復帰した。

 再び堀越氏のものとなった見付端城であったが、それも束の間のことであった。斯波方との抗争は激化して、翌年小夜中山合戦で貞延は討死してしまったのである。さらに同八年、横地、勝間田氏が見付端城を補強して反旗を翻した。義忠は再び見付を攻めて両氏を滅ぼしたが、その帰途塩買坂で横地、勝間田の残党の矢に当り死去してしまったのである。これで今川氏の遠江進出は頓挫してしまった。

 この後、今川氏は氏親の代になって再び遠江への進出をはじめるようになる。明応三年(1494)の原氏(高藤城)討伐に始まり、文亀元年(1501)の社山城占有に至るまで斯波氏との激戦が続いたが、それ以後の中遠地方は今川方によって固まったと見てよい。当然、見付には堀越貞延の子貞基(用山)が入った。

 天文五年(1536)、今川家の家督を継いだ義元に対し、堀越用山は反旗を翻した。駿河における反乱(花倉の乱/花倉城)を鎮定した義元は遠江における反乱を鎮圧すべく、翌年犬居城の天野宮内右衛門虎景らに見付端城の攻撃を命じた。

 この時、こんな話が伝わっている。天野軍の来襲を知った城主堀越用山は家老茨木(ばらき)弾正に「向笠城と屋城山城(社山城)に援軍を頼んで参れ」と命じた。茨木弾正は馬を飛ばして使いを済ませると急いで城へ馬首を返した。ところが時すでに遅く、城は炎上して落城寸前であった。茨木弾正は城の北方にあった自邸に入り、自害したという。見付天神の北側に茨木バス停があるが、このあたりであろうか。

 実は見付端城の名の初出はこの時とされている。

 四月二十二日、今川方の天野軍によって当城は落城した。用山の子氏延は堀越(袋井市)に移ったといわれている。その後は廃城同然となっていたが今川氏真の代に一時的に復旧されたようである。永禄六年(1563)、焼失したと記されている。


▲南郭跡である大見寺山門。

▲大見寺境内。墓地周辺に土塁跡が残っている(2003)。
----備考----
訪問年月日 2005年2月27日
主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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