築山御前月窟廟

(つきやまごぜんがっくつびょう)

                   浜松市中区広沢           


▲ 三十八歳の生涯を終えた築山御前の墓。御前灯二基は介錯をした野中氏の子孫によって献じられたもので
ある。昭和20年6月18日の戦災により廟堂は破壊されたが、昭和52年10月1日に復元、落慶式が行われた。

悲運の正室、
     築山御前

 築山御前ははじめ「瀬名姫」と呼ばれていた。出身が現在の静岡市瀬名であったからである。父はそこの領主であり、今川家の重臣であり、また今川氏の一族でもあった関口刑部少輔義広である。母は今川家九代目当主氏親の三女であった。したがって瀬名姫は今川義元の姪にあたる。

 弘治三年(1557)正月、義元は瀬名姫を養女とし、松平家の人質として駿府にあった松平二郎三郎元信(後の徳川家康)に嫁がした。云うまでもなく政略結婚である。ただ、「天下に聞える美人なり」と云われたほどであるから単なる押し付け女房ではなかったようだ。歳は家康と同年か一つ年上であったといわれている。二人の間には嫡男信康と長女亀姫が生まれた。

 永禄三年(1560)、桶狭間の戦い

 運命の歯車は突然変った。今川義元が敗死して元信改め元康は岡崎城に入った。織田と同盟を結び、反今川となった家康は三河上郷城の鵜殿氏を攻め、氏長、氏次の兄弟を捕まえた。この兄弟と交換に瀬名姫と信康、亀姫は無事岡崎城の家康のもとへ行くことができたのである。そして瀬名姫は城内の築山曲輪に住むことになったことから、以後は「築山御前」「築山殿」と呼ばれるようになった。

 天正七年(1579)七月、織田信長は家康に対して築山御前と信康が武田に通じ、謀反を企てているとして自害させることを強要してきた。強敵武田と対するには織田の後ろ楯は不可欠である。家康は涙を呑んでこれを受け入れた。

 信長の真意は今となっては判らないが、今川の血を後世に残したくなかったのかもしれない。

 先ず信康が岡崎を出て遠江二俣城に謹慎させられ、続いて八月二十五日に浜松城へ移るという名目で築山御前が岡崎城を出た。

 築山御前は三ケ日から舟で浜名湖を渡り、入野川から佐鳴湖の岸へ上がった。そこには筵が敷かれ、介錯人野中三五郎重政、岡本平右衛門時仲、検死役石川太郎左衛門義房らが待っていた。築山御前、享年三十八歳。首は織田信長のもとへ届けられたという。


▲月窟廟は西来院の境内にある。延宝六年(1678)の百回忌に廟堂が建立されたが昭和二十年(1945)の戦災によって焼失、昭和五十二年(1977)に再建された。

佐鳴湖畔富塚町(浜松医療センター前)の築山御前最期の地、太刀洗池。介錯に使われた名刀貞宗に付いた血をこの池で洗った。池の水は百年赤く濁ったという。この附近は御前谷と呼ばれている。

▲月窟廟のある西来院本堂。

▲月窟廟前の説明板。

▲月窟廟の隣にある松平源三郎康俊の墓。康俊は家康の異父弟である。
----備考----
訪問年月日 2004年9月12日
主要参考資料 「浜松城物語」他