頭陀寺城
(ずだじじょう)

                   浜松市南区頭陀寺町         


▲頭陀寺城は頭陀寺とその塔頭等をを中心とした地域一帯のことを
指しており、その南部に松下屋敷があった。屋敷の西部分にあたる
所は現在、頭陀寺第一公園となっており、住民憩いの場となっている。

父祖の地を
         静かに守り続ける

 城址の推定図を見ると、方形の城域を土塁で囲み、さらにその外周を水堀が囲み、南側に門が設けられている。典型的な中世の武家屋敷である。平成十三年十月に、店舗建設に際して発掘調査が実施され、礎石が発見された。これは規模の大きな建造物のあったことを証している。

 初代高長が三河国碧海郡松下郷に住し、土地の名を姓としたのが松下氏のはじまりである。その松下氏が遠江の当地に城屋敷を構えるようになったのは七代目源左衛門長則からである。ときは今川義元全盛の時代であった。

 天文二十年(1551)頃、長則の子加兵衛之綱(十四歳)と同年の木下藤吉郎が松下家に奉公したことが諸書に記されている。経緯等の詳細は分からないが、附近には秀吉にまつわる伝承地が残されている。

 さて、長則である。桶狭間合戦後、今川の衰退ははなはだしく、家督を之綱に譲ってからと思われるが、その仕官先を北条、武田と転々としている。没年は天正十八年(1590)三月であった。

 そして之綱である。永禄十二年(1537)の徳川家康の遠州入りに際してはいち早く従属を表明して掛川城攻めに加わり、後に秀吉に属して遠江久野城主へと出世した。その子重綱は一万六千石の東軍大名として関ヶ原に参戦、その後は二本松三万石(二本松城)にまで栄進した。

 栄枯盛衰は世の常、重綱の後の長綱は陸奥三春三万石に転じたが乱心改易となり、後に子孫は三千石の旗本として明治を迎えた。

 しかし、之綱の長子は重綱ではなく暁綱(あきつな)である。どういうわけか(病弱であったともいわれている)之綱は頭陀寺の屋敷を暁綱に譲り、土着させたのである。武家社会の権勢から隔離でもするかのように。

「父祖の地をしずかに守るのじゃ」

 暁綱は父之綱の命に従い、土地の庄屋として、この地を子孫につたえ続けたのである。


▲頭陀寺公園の入口。松下屋敷跡である。

▲頭陀寺境内の幼少期の三公像。左から豊臣秀吉、徳川家康、井伊直政。

▲頭陀寺公園。樹木の部分が幾分盛り上がっている。土塁の痕跡であろうか。

▲公園内に建つ「松下嘉平次屋敷跡」の碑。

▲松下屋敷推定図。西側の土塁と堀の部分が公園となっている。

▲公園の東は市街化して屋敷跡は消滅している。

▲頭陀寺公園の北側に頭陀寺がある。

▲頭陀寺の山門。

▲頭陀寺山門前に立てられた説明板。

▲2004年当時の頭陀寺公園。

▲同じく屋敷跡の碑。

----備考----
訪問年月日 2004年5月1日
再訪年月日 2020年12月29日