大石屋敷
(おおいしやしき)

      掛川市大坂     


▲大石屋敷は戦国期に帰農土着した大石氏の屋敷地である。
(写真・大石屋敷の長屋門)

命を懸けた高天神の戦い

遠州の要衝として名高い高天神城跡の南約3kmに静鉄「南大坂」バス停がある。このバス停の西100mほどに、かつての軽便鉄道「南大坂」駅の跡地があり、駅名標のモニュメントが立っている。そしてこのモニュメントの立つ道路の反対側(北)の丘上に視線を移すと立派な長屋門が見える。戦国の世に、ここに屋敷を構えて以来、現在に至るまで家系を守り続けている大石氏の屋敷地である。

永禄十一年(1568)、高天神城主小笠原与八郎長忠は今川氏を見限り、遠州入りした徳川家康に臣従した。そして高天神城近在の地侍らもこぞって家康への臣従を願い出た。この時、すでに小笠原長忠の麾下にあった大石外記氏久(義久)も長忠の紹介で家康に目通り、高天神城大手口の池ノ段の守備を命ぜられたという。

この大石氏の先祖は鎌倉公方足利持氏に仕え、武蔵国守護代であった大石三河守憲儀である。憲儀は永享の乱(1439)で主君足利持氏とともに自刃して果てた。子の大石右衛門は十歳にして浪々の身となり、母とともに駿河へ落ちた。母は駿河守護今川範忠の妹であったことから富士の今泉(富士市今泉)に知行を与えられ、その後は代々今川氏に仕えた。大石外記は憲儀から五代目の孫であった。

ところが大石外記氏久のとき、今川氏真の寵臣三浦右衛門佐義鎮(よししげ)によって今泉の地を取り上げられ、地味の悪い所へ領地替えとなり、遠江へ移住することになってしまった。三浦右衛門は氏真の寵をよいことに同様の領地替えをいくつもやり、多くの者から恨まれたという(右衛門塚)。

元亀二年(1571)三月、武田信玄が遠江に侵入して塩買坂(御前崎市新野)に現れた。高天神城では臨戦態勢がとられ、大石外記氏久も息子新次郎久末と共に城内大手口池ノ段に詰めた。この時、城主小笠原長忠は池ノ段の守将小笠原右京氏義以下五百の兵を城外国安村まで出兵、武田勢の内藤昌豊の一隊と戦って城内に引き揚げているが、大石外記の名が小笠原右京麾下の士として伝えられている。この後、信玄は兵をまとめて北上、天方城犬居城などを落として甲斐へ戻った。

また、天正元年(1573)に小笠原長忠は武田勝頼が高天神城攻略の足場として築いた諏訪原城の偵察に高天神城三の丸の守将小笠原与左衛門清有ら五百の兵を繰り出しているが、この中にも大石外記の名が見えている。武功を上げ、少しでも豊かな土地を得たかったのかも知れない。

天正二年(1574)六月、武田勝頼が大軍を率いて高天神城に押し寄せた。戦いは大手口を巡って激しく激突、寄せ手の力攻めに対して城兵も必死の抵抗で応戦した。寄せ手の武田勢は無理攻めは犠牲が多いと判断して退却に移った。すると城内から三十騎ほどの一隊が退却する敵を追って突出した。この突出組に大石外記がいた。突出組が引き上げる際に大石外記は二ヵ所に槍傷を負い動けなくなり、敵に首を取られそうになってしまった。それを見た城内の味方が槍を振りかざし走り出て敵を追い払い、息子の新次郎久末(十八歳)も駆け付けて父を肩にかけて城内に運び入れた。しかし受けた傷は深く、三日後に亡くなってしまった。享年五六歳。

その後、籠城戦は二ヵ月間続いたが家康の援軍は来ず、ついに城主小笠原長忠は武田勝頼に対して城兵の助命を条件に開城降伏してしまった。この時、勝頼は城兵の帰属先は自由とし、武田に従う者には知行安堵の朱印状を渡したという。

大石新次郎久末も勝頼の御朱印を受けたが、それには応ずることなく徳川方の馬伏塚城へ退いた。そして大須賀康高の麾下となり、その後は高天神城の奪還戦に加わったものと思われる。天正九年(1581)、高天神城落城して徳川のものとなる。天正十年(1582)、武田勝頼滅亡。

大石新次郎は武田氏滅亡を機に大坂村に帰農して地域開発にその後の生きる道を見出した。諸所より百姓を招き集め、千石の土地を開墾して一村を立てた新次郎は宗兵衛を名乗り、その後代々続いて現在に至るという。

大坂村で土地を切り開き汗を流す新次郎の脳裏には一族の為に命を賭して高天神城で戦い、そして果てた父の姿が常にあったことはいうまでもない。


▲軽便鉄道南大坂駅跡から見た大石屋敷。

▲立派な長屋門。「大石」氏の表札が掛かる。

▲屋敷の西側は高台となっており、三井山砦へと続いていることから大石氏が三井山砦の主であったとの見方もある。

▲高台から見下ろした屋敷の長屋門。



----備考---- 
訪問年月日 2023年10月19日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」
「高天神城実戦記」他

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