関ヶ原古戦場 平塚為広碑
(せきがはらこせんじょう)
(ひらつかためひろひ)

            岐阜県不破郡関ケ原町大字藤下    


▲平塚為広碑は関ヶ原合戦当時に大谷吉継隊の左翼に
展開布陣した平塚為広の陣地跡(推定)に建てられている。
(写真・「平塚因幡守為広碑」)

至誠廉潔豪勇の士

 慶長五年(1600)、豊臣家は黄母衣衆、直臣としての長年の功績に報いる形で美濃垂井一万二千石を平塚因幡守為広に与えた。しかし、領内の治世や城館(垂井城)の整備も中途の状態で為広は戦乱の渦に巻き込まれてしまう。

平塚為広は大谷吉継と共に石田三成への合力を決し、手勢を率いて佐和山城へ入城したのが七月十一日である。十六日、為広は三成とともに大坂城へ移動。十九日からは大坂に集結した西軍勢とともに伏見城攻めに参加した。その後、九月三日には大谷吉継勢とともに関ケ原の西側の山中村周辺に布陣、東軍との決戦に備えた。

それから数日後、大垣城の石田三成から大谷吉継のもとへ小早川秀秋陣への使者派遣の要請があった。秀秋は伏見城攻めに参加した後は積極的な行動をせず、佐和山城南の高宮に留まったままであったからだ。関ヶ原への布陣督促の使者である。平塚為広は戸田武蔵守重政とともに吉継の命を受けて小早川陣へ向かった。ちなみに、戸田重政は越前安居城主一万石の武将で、吉継の北陸攻めに従軍、以来吉継と行動を同じくして来ていたのである。

ところが、小早川秀秋は病と称して平塚、戸田両人に会おうとしなかったのである。秀秋の叛意が明らかであれば、その場で刺し違える覚悟であったが、二人は仕方なく引き上げている。

その小早川秀秋が松尾山に布陣したのは九月十四日であった。この日の夜、石田三成以下の西軍勢は大垣城を出て関ヶ原に向かい、翌十五日未明には笹尾山から天満山にかけて布陣を完了した。大谷吉継は天満山の南の宮上の丘陵地に陣取り、平塚為広はその前面に陣を構えた。

夜が明け、霧も晴れ始めると西軍天満山の宇喜多秀家隊と東軍第一陣福島正則隊の激突(開戦地)で戦いの幕が上がった。西軍の笹尾山石田三成陣、その隣の島津義弘陣、北天満山の小西行長陣の正面にも東軍第一陣、そして第二陣が殺到して関ケ原の山野に喚声と銃声と馬蹄の音が充満した。

平塚為広隊の正面に迫ってきたのは藤堂高虎隊と京極高知隊であった。平塚隊は戸田重政隊を加えて千五百、対する藤堂・京極隊は五千五百である。四倍近い敵に対しても平塚・戸田隊は怯むことなく敵を押し返し、不破関跡近くまで撃破したと伝えられている。

午前中の戦いは一進一退、ほぼ互角の戦いが続いた。いまだ動かずにいる松尾山の小早川隊の戦闘参加が勝敗を決する状況になりつつあった。笹尾山の石田陣からはしきりに小早川の戦闘参加を促すのろしが上がっている。

午後に入るとその松尾山に動きがあった。小早川隊一万五千は東軍に対してではなく西軍大谷吉継隊に向かって突撃を始めたのである。平塚為広、戸田重政ともに馬首を返して大谷隊支援のために小早川隊の側面を突き、三度押し返した。しかし、小早川隊の寝返りに呼応して松尾山麓に布陣していた脇坂安治、朽木元網、小川裕忠、赤座直保の隊が平塚、戸田、大谷の隊へ突撃してくるとさすがに押され気味となり、さらに態勢を持ち直した藤堂、京極隊も加わると平塚、戸田、大谷隊は防戦一方となり、乱戦となった。

そこへ第三陣の織田有楽隊が加わり、ついに戸田重政が織田長孝(有楽の長男)らに討たれて戦死した。

平塚為広も「もはやこれまでか」と討ち取った小早川家臣横田半助の首に辞世の句を添えて大谷吉継のもとへ送った。

「名の為に 捨つる命は 惜しからじ 遂にとまらぬ 憂世と思へば」

 大谷吉継はすぐに返歌をしたためた。

「契りあらば 六つの巷で 待てしばし おくれ先立つ 事はありとも」

 と決死の覚悟を伝えたが、この返歌が為広のもとに届いたのかは分からない。

 辞世を送った平塚為広は勇躍、敵勢の中に身を投じ、討死した「太刀ヲ振ヒ大ニ戦ヒ遂ニ戦死ス(平塚為広碑より)」。

 大谷隊が壊滅し、吉継が宮上の山中で自刃したのはそれからすぐの事であったろう。

 現在、平塚為広が陣したとされる場所には顕彰碑が建立されている。その碑文の最後は、

「至誠廉潔豪勇ノ名世ニ聞エ盲昧叛逆ノ士多カリシ時旧友吉継ノ義ニ殉シタルハ誠ニ武士道ノ亀鑑トナスベキカ」

 の言葉で締めくくられている。

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▲昭和十五年(1940)に平塚家八代為忠の次男定二郎によって建立された平塚為広の碑。

▲関ヶ原古戦場の史跡説明板。
----備考----
訪問年月日 2022年7月30日
主要参考資料 「陣跡が伝える関ヶ原の戦い」他

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