関ケ原古戦場 松尾山
(せきがはらこせんじょう)
(まつおやま)

町指定史跡(松尾山城跡)

            岐阜県不破郡関ケ原町山中    


▲松尾山は戦国初期、江濃境目の城として築かれたが、やがて廃城となる。
その後、関ヶ原の戦いに際して修築が施され、小早川秀秋の軍勢が布陣した。
(写真・松尾山から俯瞰した関ヶ原、黄矢印は石田三成布陣の笹尾山)

大谷へ討ち掛かり候え

 関ヶ原の南西高地である松尾山は関ヶ原合戦時に小早川秀秋が一万五千の軍勢で布陣したことで知られるが、関ヶ原全体を俯瞰できることから以前より城砦化され、江濃の境目城の役割を果たしていた。

 松尾山城は応永年間(1394-1428)に美濃守護土岐氏の守護代富島氏によって築かれたのが初見とされる。富島氏はその後、斎藤氏の下剋上によって守護代の座を追われ、没落してしまう。

 それから約百年後の大永年間(1521-28)に近江浅井氏の家臣堀氏が「長亭軒城」として修築、居城とした。

 永禄十二年(1569)、この前年に武力上洛を果たした織田信長の管理下に置かれたようだが、元亀元年(1570)には信長と浅井長政が敵対関係となり、松尾山には浅井家臣堀氏の家老樋口直房が進駐して織田との戦いに備えた。

 この年四月、木下藤吉郎秀吉の与力竹中半兵衛重治が旧知の樋口直房を調略、松尾山は再び織田方の城となる。

 元亀四年(1573)、姉川の戦いに勝利した織田信長は松尾山に不破光治を置いて街道の警備にあたらせた。その後、天正七年(1579)に光治が越前に移るとともに松尾山の城は廃されたとされる。

 戦国の歴史の中心は織田信長から豊臣秀吉へと移り、そして秀吉亡き後は徳川家康へと移ろうとしていた。慶長五年(1600)、「家康の専横許すまじ」と石田三成が挙兵して家康との対決に立ち上がった。すでに諸大名の大半は会津征伐のために関東へと向かいつつあったが、遅れた諸大名は大坂で三成の挙兵に組み込まれ、西軍として伏見城の攻略に充てられた。

筑前名島三十五万七千石の小早川秀秋も三成の挙兵後に大坂入りしたために伏見城攻略に参戦させられている。伏見城攻略後、西軍は東海道と中山道に分かれて進撃することになったが、秀秋の軍勢のみは東海道石部に八月十七日から十日程とどまり、鈴鹿峠を越えて関地蔵に達すると反転して高宮へ移動した。高宮到着が九月七日である。高宮は三成の居城佐和山城の至近の位置にある。

ちなみにこの頃には東海道を進軍した宇喜多秀家、毛利秀元、吉川広家らの軍勢は安濃津城(津城)、松阪城長島城を攻略して大垣城と南宮山に陣し、また中山道を進んだ石田三成、小西行長、島津義弘らも大垣城に入って東軍の来襲に備えていた。

高宮に移動した小早川秀秋はここに七日留まり、川狩りなどして三成らに合流するのを避けていたようである。

この間に秀秋は家康に使者を二度送っている。すでに秀秋は黒田長政から家康の側に付くように説得されており、黒田家臣の大久保猪之助を陣中に置いていた。また家康からも目付役として奥平貞治が派遣されていた。それに加えて秀吉の正室高台院(北政所)からも家康の恩義を忘れぬようにと言い含められていた。家康の恩義とは朝鮮の役に際して蔚山に籠城した加藤清正、浅野幸長を救援するために秀秋みずから陣頭に立って明・朝鮮軍を撃退する活躍を見せたことがあるが、これが三成によって軍規違反とされ、越前北の庄十五万石に減封が命ぜられたのだが、それを家康の配慮によって帳消しとなったという経緯の事である。

いずれにせよ、小早川秀秋の腹は東軍に従うことに決まっていたのであるが、ここで敵意をむき出しにすれば西軍勢に囲まれて自滅してしまう。どっちつかずの行動は秀秋陣営の方針であったといえる。

この高宮滞陣中に大谷吉継の指示で平塚為広と戸田重政が秀秋の陣所へ派遣されている。この時、秀秋は病と称して会うのを避けている。為広と重政は秀秋の反意が明確となれば刺し違える覚悟であったと言われている。

九月十三日、小早川秀秋は重い腰を上げた。この日は美濃境の柏原に宿営、次の日に関ヶ原に出て松尾山に陣取った。

秀秋が着陣する前、松尾山には大垣城主で城を西軍に明け渡した伊藤彦兵衛盛正が三成の命を受けて修築の作業を行っていた。長期戦になった場合、ここを西軍の総大将毛利輝元の本営にしようとしたとも言われている。そこへ秀秋が陣取ったのである。この時、秀秋らは修築作業中の伊藤盛正らを追い出して布陣したと伝えられている。

ちなみにこの日、徳川家康が大垣城の北西岡山に着陣した。この夜、石田三成ら大垣城の西軍勢は雨の中、密かに関ケ原へと移動、東軍勢との決戦に備えた。家康もまた関ヶ原への移動を開始して未明には桃配山に陣所を構え、第一陣、第二陣、第三陣と魚鱗の陣で西軍勢に対した。

九月十五日の夜が明けたが濃い霧が関ヶ原を覆っており、彼我の状況がつかめずに対峙の状態が続いた。やがて霧が晴れかかると最前線から鉄砲の一斉射の轟音が響き(開戦地)、これを機に各戦線で両軍の激突がはじまり、瞬く間に関ケ原の山野に喚声と鉄砲の音が充満した。こうして午前中は両軍一進一退の攻防が続くことになる。

松尾山では小早川秀秋とその重臣平岡頼勝、稲葉正成らが東西両軍の激闘を眼下に眺めていた。戦いは地の利を得た西軍が善戦しているようにも見える。三成の本陣笹尾山からのろしが上がった。小早川の参戦を促すのろしなのだ。

不動の秀秋に不安を感じたのか黒田家臣の大久保猪之助は平岡頼勝に向かって「ことここに至りていまだ下知なきは不審なり」と脇差に手をかけて東軍加担を迫ったという。徳川家臣の奥平貞治も気が気でなかったはずだ。

昼近くになると西軍の陣形にも乱れが生じてきたが、松尾山に対面して布陣する大谷吉継とその軍勢のみは無傷のままである。吉継が小早川の動きに身構えているのは明らかであった。

秀秋の側近稲葉正成は「頃合いかと」と進言した。秀秋が頷くと使番村上右衛門が山裾へ駆け下り、先鋒部隊の松野主馬重元に「大谷へ討ち掛かり候え」と伝えた。ところが「この期に及んで寝返るとは武門の恥である」として松野主馬は軍を止めて動こうとしなかったのである。先鋒が動かないから後に控える隊は進めない。状況を伝えるために伝令が山上へ駆け上るが、これがかなりの時間の浪費となったことは容易に想像できる。家康が「まだか、まだか」と苛立つのも分かるというものである。ちなみに、松野主馬は戦場から逐電、戦後は豊臣家の忠義者と評されて田中吉政に仕えたという。

「何をしておる」と家康への責任を感じたのか奥平貞治が先鋒部隊に駆け付け、これを率いて大谷隊へ突撃した。これで小早川隊の東軍徳川方への寝返りが明白となった。先頭を駆けて奮戦した奥平貞治は深手を負って落命した。

小早川隊の反応を見た脇坂、朽木、小川、赤座の諸隊も大谷隊へ向かって攻め掛かった。大谷隊の奮闘も長くは続かずに壊滅、吉継は自害して果てた。

小早川隊の参戦によって戦況はにわかに東軍優勢となり、宇喜多、小西、石田隊も総崩れ、島津隊も敵中を突破して離脱した。こうして関ヶ原の戦いはわずか一日で東軍徳川家康の大勝利となって幕を下ろした。

小説「白布の武将・大谷吉継」のページへ


▲陣跡に残る土塁。

▲陣跡の桝形虎口。

▲登山者用駐車場。

▲山頂の説明板。

▲町指定史跡松尾山城の年譜。
----備考----
訪問年月日 2022年7月30日
主要参考資料 「陣跡が伝える関ヶ原の戦い」他

 トップページへ全国編史跡一覧へ