松坂城
(まつさかじょう)

:国指定史跡

            三重県松阪市殿町       


▲松坂城は蒲生氏郷が築いた近世城郭である。吉祥の木「松」と秀吉の大坂城
の「坂」を貰い受けて「松坂」と命名したと言われる智将氏郷の名城である。
(写真・本丸上段と天守台。)

氏郷開府の松坂城

 天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦の後、羽柴秀吉は蒲生氏郷にその戦功を賞して伊勢松ヶ島城十二万三千百五十五石を与えた。近江国日野城六万石から倍する加増である。
 翌年、氏郷は松ヶ島城が海に面していて城下町のさらなる発展が望めないことから、南3.5kmの四五百森(よいほのもり)の独立丘陵に新城を築くことにした。この四五百森には十五年ほど前の元亀年間(1570-73)に大河内城の戦いで北畠方の武士として籠城、攻め寄せる織田軍に痛打を与えて名を上げた潮田長助が、織田・北畠の和議に納得できずに仲間と共に城砦を築いたのだと伝えられている所である。
 氏郷は石材や木材を近在の社寺から徴発するなどして突貫工事で築城を進め、城下町の整備、街道の付け替え、松ヶ島城下町人の強制移住、近江日野や伊勢大湊の商人の招致にと新たな府城建設に力を注いだ。
 天正十六年(1588)、新城完成。氏郷は吉祥の木である「松」と秀吉の大坂城「坂」を拝受して「松坂城」と命名した。
 氏郷が心血を注いで築き上げた松坂城であったが、在城期間は短かった。二年後の天正十八年(1590)、氏郷は小田原合戦(小田原城)の戦功により一躍、会津(若松城)六十万石に封ぜられたのである。
 天正十九年(1591)、秀吉の黄母衣衆であった服部采女正一忠が小田原合戦の戦功で松坂城主となった。三万五千石である。服部一忠は永禄三年(1560)の桶狭間合戦で今川義元に一番槍をつけたことで知られている武将である。松坂城を与えられた一忠であったが、羽柴秀次付きとなったために家臣石黒毛右衛門が松坂城在番となって入城した。
 文禄四年(1595)、一忠は秀次事件に連座して改易となる。上杉景勝預かりとなったが、秀次自刃後、一忠も切腹して果てた。

 服部氏改易後、近江国日野城主古田兵部少輔重勝が三万四千石で松坂城主となった。関ヶ原合戦後、二万石を加増される。慶長十年(1605)、重勝、没。後嗣の重垣は幼少であったため、重勝の弟である大膳亮重治が後見として在城した。
 蒲生氏時代から継続され続けてきた普請が、この古田氏の時代に完成したと言われている。
 元和五年(1619)、古田氏は石見国浜田に転封となり、松坂領六万石は同年和歌山入りした徳川頼宣の紀州藩領となった。
 松坂城は同じく紀州藩領となった田丸領、白子領合わせて十八万石を統括する府城となり、二の丸に陣屋が構えられて明治に至った。
 なお、氏郷の築いた三重の天守は寛永二十一年(1644)の台風によって倒壊したと伝えられている。


▲二ノ丸北東面の高石垣。
 ▲市駐車場前の説明板。
▲説明板の空撮写真。

▲城址入口(大手口)の史跡碑。

▲表門跡。

▲「蒲生氏郷公開府 松阪城跡」の碑。

▲月見櫓跡の石垣。

▲本丸上段北西外側の石垣。

▲きたい丸。

▲きたい丸から北西方向を展望。

▲きたい丸南東側石垣。

▲本丸上段。

▲本丸上段北東隅の金ノ間櫓跡に建つ「松阪開府之碑」。

▲天守台北側の敵見櫓跡。

▲天守台跡。

▲天守台から見た本丸上段。

▲本丸上段と本丸下段の虎口。

▲本丸下段。

▲中御門跡。

▲裏門跡。

▲二ノ丸から見た御城番長屋。二列の長い屋根がそれである。

▲二ノ丸南側の石垣。
----備考----
訪問年月日 2015年1月3日
主要参考資料 「日本城郭総覧」
「日本城郭全集」他

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