関ケ原古戦場 笹尾山
(せきがはらこせんじょう)
(ささおやま)

国指定史跡(石田三成陣地、決戦地)

            岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原    


▲笹尾山は関ヶ原西北部の高地で石田三成の軍勢が布陣した。
(写真・石田三成陣地前に再現された柵)

三成、再起を期して

慶長五年(1600)九月十四日、徳川家康の岡山着陣を確認した大垣城の石田三成は明日こそ決戦の日と定め、この日の夜中に関ヶ原への移動を開始した。関ヶ原の丘陵地を先取して東軍徳川方を迎え撃つ作戦である。

すでに関ヶ原東部の南宮山には毛利秀元、吉川広家、長曾我部盛親ら二万七千余の軍勢が、関ヶ原西部の中山道口に大谷吉継ら五千余と松尾山北麓に赤座、小川、朽木、脇坂ら四千余が布陣している。そしてこの日、近江から移動してきた小早川秀秋の軍勢一万五千が関ヶ原南部の松尾山に陣取っていた。

雨の中、南宮山の南側伊勢街道を西へ進んだ石田、豊臣黄母衣衆、島津、小西、宇喜多の軍勢三万余は関ヶ原西部の丘陵地笹尾山から天満山にかけて布陣した。総兵力は八万余である。やがて夜は白み始め、雨はやんだが霧が濃く、視界は効かない。

石田ら西軍勢の移動を察知した徳川家康も直ちに麾下東軍勢の関ヶ原進出を下知してみずからも東山道(南宮山北側)を進んで桃配山に本陣を置いた。東軍総兵力も八万余である。

最初に関ヶ原に入った石田三成は笹尾山に陣取り、山麓に竹矢来を二重に組み、堀を掘って戦闘に備えた。石田方の先鋒は島左近勝猛、二番蒲生備中頼郷である。

霧が晴れ始めると同時に南天満山の宇喜多秀家の陣所方面に激しい銃声が轟き、東軍福島正則勢の突撃で開戦の火蓋が切られた(開戦地)。宇喜多勢、福島勢の激突を機に北天満山の小西行長勢、北国街道口の島津義弘勢、そして笹尾山の石田勢の各戦線で東軍勢の攻撃が始まり、瞬く間に関ヶ原の山野は喚声と銃声と馬蹄の音で充満した。

笹尾山石田陣に突進してきたのは田中吉政勢である。すかさず先鋒島左近勢が打って出て田中勢と激突した。島勢の猛撃はすさまじく、田中勢は二町(約200m)ほど押し戻され、崩れるかと思われるほどであったという。そこへ細川忠興勢が田中勢の加勢に島勢へ突っ込んできた。さらに黒田長政、竹中重門の軍勢が島勢の側面を攻撃、ついに猛将島左近も銃撃を受けて負傷後退する。

島左近勢を陣地内に収容したところで三成は大筒五門を放ち、蒲生備中の鉄砲隊が激射して迫る東軍勢を怯ませた。その隙に蒲生備中勢と石田家臣の高野越中、大山伯耆らの軍勢が陣前に躍り出て迫る東軍勢を切り伏せる。

しかし、石田陣へ殺到する東軍勢は黒田、竹中、細川、田中の軍勢に加えて新手の織田長益、古田重然、船越影直、佐久間安政らと後陣にあった金森長親、生駒一正、小出秀家らも戦闘に加わり、石田勢を圧倒しつつあった。

笹尾山の石田三成は未だ動きのない南宮山の毛利勢と松尾山の小早川勢に向け参戦要請の狼煙を上げ、使者を走らせた。午前の戦いは地の利を生かした西軍が優勢であったが次第に新手を繰り出す東軍の勢いに乱戦となり、西軍は防戦一方となる。すでに笹尾山の前には石田勢の三倍以上の東軍勢が殺到していた。

正午過ぎ、あろうことか松尾山の小早川勢一万五千が大谷吉継勢に攻め掛かった。それに加えて山麓に布陣していた赤座直保、小川祐忠、朽木元網、脇坂安治の諸軍勢も大谷勢攻撃に加わったのである。多勢に無勢、大谷勢の苦戦は明らかである。石田三成は盟友大谷吉継の加勢のために自陣近くに布陣する豊臣黄母衣衆らを向けたという。

大谷勢が壊滅すると宇喜多、小西勢も崩れはじめた。陣地内で手当てを受けた島左近は再び出陣、乱戦となった戦場へ斬り込んで壮絶な討死を果たした。一説には東軍戸川逵安に討たれたという。陣前で奮戦を続けていた蒲生備中は織田有楽の隊に遭遇、有楽自身に傷を負わせるも敵に囲まれて壮絶な最期を遂げた。島左近の嫡子新吉、三成家臣の舞兵庫、林半助、森九兵衛、大山伯耆らも戦場に斃れた。

浮田、小西勢が瓦解、島津勢は敵中を突破して戦場を離脱した。もはや石田勢の壊滅も時間の問題であった。南宮山の毛利勢は動かず、そして松尾山の小早川勢の裏切りに石田三成は怒りに震えたが敗戦の現実を受け入れるほかない。大坂に秀頼公が健在である限り、この戦いは終わっていないのだ。「再起を期すべし」との家臣らの進言もあって、三成は戦場を逃れた。

笹尾山を脱した石田三成は七日ほど近江の山中に潜んだ。その間に盟友大谷吉継の最期を知り、また居城佐和山城が東軍の攻撃を受けて石田一族が滅ぼされたことを知る。三成の身体から再起の思いが抜けてゆく。やがて田中吉政の探索の縛に身をゆだね、大津の家康陣に送られた。その後、大坂と京都の市中を引き回され、十月一日に六条河原にて小西行長、安国寺恵瓊とともに斬首された。石田三成、享年四十一。

(各軍勢の兵数は諸説あり、概ね旧参謀本部「日本戦史」によった)

小説「白布の武将・大谷吉継」のページへ


▲笹尾山の「関ヶ原古戦場石田三成陣地」の史跡碑。

▲小早川の裏切りによって大谷勢が壊滅、続いて宇喜多、小西、島津の軍勢も崩れ、戦場を去ると東軍勢は石田陣へ殺到した。残る石田勢は最後の決戦を展開した。「関ヶ原古戦場決戦地」の碑。

▲笹尾山石田陣地跡。

▲笹尾山から見た関ヶ原。

▲決戦地碑から見た笹尾山石田陣地。
----備考----
訪問年月日 2022年7月30日
主要参考資料 「陣跡が伝える関ヶ原の戦い」他

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