下田城
(しもだじょう)

              静岡県下田市三丁目        


▲ 下田城の天守台と城址碑。碑面には別称である鵜島(うじま)城址と
彫られている。城址碑の後方階段を上った所が天守台(主郭)である。

後北条氏、海の盾

 下田城は下田湾口に突き出た鵜島と呼ばれる半島に築かれており、別名鵜島城とも呼ばれる。
 天正十六年(1588)、後北条氏五代北条氏直は天下平定を推し進める豊臣秀吉との対決に備える一環として、伊豆奥郡代清水上野介康英を下田城の城将とし、城の大改修を命じた。副将に同心高橋丹波守、他に康英の弟淡路守英吉ら一族衆、伊豆衆の八木和泉守、村田新左衛門、小関加兵衛、小田原からの援将として江戸摂津守朝忠、検使高橋郷左衛門尉など合わせて六百余騎が決戦の日までに下田城に結集された。
 下田城は後北条氏の本城小田原城に至る海上路を監視、妨害する位置にある。陸路の盾として山中城や韮山城を改修整備したのと同様に下田城は海の盾として後北条氏が重要視した城であったといえる。下田城に後北条水軍を結集して豊臣水軍に打撃を与えることができるなら、所期の目的は達せられるのであるが、城将清水康英は城を要塞化して籠城戦に備えたのである。
 城の周囲には何ヵ所かの船溜りが設けられているため、下田城は水軍城または海賊城として紹介されることが多いが、城自体は土塁と空堀、畝堀で防御された山城である。歴戦の毛利、九鬼の水軍を擁する豊臣勢を相手に後北条の貧弱な水軍では太刀打ちできぬと最初から籠城に備えた改修であったのだろう。
 天正十七年(1589)十一月、秀吉が後北条氏に宣戦布告した。
 天正十八年(1590)二月、豊臣水軍勢が駿河湾清水湊に集結した。三月には陸路の軍勢が山中城、韮山城を攻撃した。水軍勢も出撃して西伊豆沿岸の諸城を落とし、四月一日には下田沖に迫った。長宗我部元親、九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治、毛利勢ら総勢一万四千余であった。
 戦いは豊臣方の安国寺恵瓊、脇坂安治ら毛利勢を主とする上陸軍が柿崎方面から下田城下に迫り、城をめぐる攻防戦が続き、後北条方の江戸朝忠が討死している。
 四月二十三日、投降勧告の矢文が毛利方より城内に届いた。それには籠城軍の赦免が確約されていた。
 開城の日付は明確ではないが、二十三日から数日を経ずして降伏したとみられている。

▲ 空堀跡。かつては後北条氏特有の畝堀であったといわれるが、現状では確認できない。
 城を退去した清水康英は林際寺(河津町沢田)で高橋丹波守らにその労苦を謝して散軍したという。その後康英は三養院(河津町筏場)に隠遁、翌年六月に病没した。
 後北条氏滅亡後、下田城には徳川家臣戸田忠次が五千石で入った。慶長二年(1597)、忠次没して子の尊次が継ぎ、慶長六年(1601)に三河田原(田原城)に転封となって下田城は廃城となった。
 ▲ 城址公園入口に建つ城址碑。ここが登城口となる。
▲ 下田は開港の地でもある。この広場は開国広場と呼ばれている。

▲ 開国記念碑。ハリスとペリーのレリーフ像が彫られている。

▲ 天守台跡。呼び名は天守台であるがかつて天守閣が建っていたのではない。

▲ 天守台から延びる一騎駆け。

▲ 天守台近くの切通し。

▲ 馬場ヶ崎(物見台跡)から見た下田湾。かつての水軍城は現在、海上保安庁の巡視船の基地としての役割を担っている。

▲ 下田湾北側から望見した城山。

▲ 天守台近くの説明板に描かれた復元想像図。
----備考----
訪問年月日 2011年1月3日
主要参考資料 「下田の歴史と史跡」
 ↑ 「静岡県古城めぐり」他

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