妻籠城
(つまごじょう)

県指定史跡

            長野県木曽郡南木曽町吾妻    


▲妻籠城は木曽路を支配した木曽氏によって木曽南部の拠点として整備され
たとされる。小牧長久手合戦の際に徳川勢の攻撃を撃退したことで知られる。
(写真・妻籠城主郭と木曽の山々。)

南木曽の堅塁

 南北朝の争乱期、足利尊氏に属して戦功をあげ、大吉祖荘(木曾谷北部)を与えられて木曽氏を称した家村が木曾谷南部にまで勢力を拡大した際に築かれたのが妻籠城の創築らしいが、詳しいことは不明である。十五世紀中頃には木曾谷全域の支配を確立していたものと見られ、国人領主として発展して戦国期には村上、小笠原、諏訪の各氏と並んで信濃四大将と呼ばれるに至った。

木曽氏は天文二十四年(1555)、中南信を制圧した甲斐の武田晴信に伏した。木曽義昌は晴信の三女を娶り、武田の親族衆となりつつも家臣に対しては知行宛行を実施して主従関係を強化、戦国大名化の道を進んだ。そして木曽路の南の押さえとして妻籠城が整備されたものと見られている。

長篠合戦(1575/長篠城設楽原古戦場)後、武田の勢威に陰りが見えると、義昌は天正十年(1582)に至り織田信長に通じて武田を離反した。続いて信長が本能寺に斃れると徳川家康に通じて所領安堵を得ている。

天正十二年(1584)、小牧・長久手合戦に際して義昌は徳川家康から豊臣秀吉に寝返った。

四月の長久手の戦いと六月の蟹江城の戦いで豊臣方に勝利した家康は九月に木曽攻めの軍勢を発した。飯田城主菅沼定利、高遠城主保科正直、高嶋城主諏訪頼忠ら七千の徳川方軍勢が伊那から東山道神坂峠を越えて木曽路に入った。最初の攻撃目標となったのが馬籠城であった。

馬籠城の守将島崎重通は単独では抗戦できないとみて妻籠城へ後退したため、馬籠は戦禍を免れたという。徳川方の軍勢は木曽路を北上して妻籠に迫った。

妻籠城には木曽義昌の重臣山村甚兵衛良勝(たかかつ)が近在の土豪である島崎、丸山、林、勝野の諸氏およそ五百の兵を率いて籠城した。士気は高く、雲霞の如く押し寄せる徳川勢に対し、鉄砲を乱射、大木や巨石を落してよく防いだ。

戦いは次第に持久戦となり、城内の鉄砲玉の蓄えが底をついてきた。山村良勝は城兵の竹中小左衛門に城を抜け出て鉄砲玉の補充を命じた。小左衛門は三十人ほどを従え、夜陰に乗じて木曽川の牛ヶ淵の急流を泳いで渡り、三留野へ走った。小左衛門らは鉄砲玉を頭にくくりつけて再び夜陰に紛れて川を渡り、無事城内に戻った。

翌日から城兵による鉄砲の猛射が再開され、玉切れと判断していた徳川勢は驚いた。さらに周辺の山々に旗が立ち、夜には篝火が燃え盛った。山村良勝の放った伏兵が郷民を糾合したのである。豊臣の援軍現るとみた徳川勢は逆に自分たちが包囲されると不安になり、撤収に移った。逃げに入った大軍はもろいもので城兵の追撃を受けて多くの兵を失いながら敗走した。

後日、妻籠城の大勝を知った秀吉は感状を寄せたという。

妻籠城の戦いから二ヵ月後の十一月、秀吉と織田信雄が講和して家康は三河へ帰国した。その後、木曽義昌は秀吉の命により家康の支配下に置かれ、天正十八年(1590)の関東移封の際には下総国阿知戸一万石に移され、父祖伝来の木曽の地を離れた。

木曽は太閤蔵入地となり犬山城主石川貞清が代官を兼ね、妻籠城がその拠点となった。

妻籠城の戦いで大活躍した山村良勝も木曽氏に従って下総国に移ったが義昌の後継義利が改易となると徳川家臣となる。

慶長五年(1600)、石川貞清は西軍に付いて犬山城を退城、木曽は中山道を進む徳川秀忠の先鋒隊に加わっていた山村良勝ら木曽衆によって奪還された。関ケ原へと急ぐ徳川秀忠が妻籠城に到着した際に東軍勝利の報を受けたという。

関ヶ原後、木曽は徳川直轄領となり山村良勝の父良候(よしとき)が代官となり、次いで良勝が代官となって福島(木曽町福島)に代官所を設け、代々続いた。

大坂の陣(1615)後、泰平の世となり、妻籠城は廃されたという。


▲二ノ郭から主郭への道(左)と帯郭(右)。

▲主郭から妻籠宿を望見。

▲主郭へと続く尾根状の長い土橋。

▲堀切。

▲二ノ郭。

▲主郭。

▲主郭に立てられた説明板。

▲説明板の縄張図。
----備考----
訪問年月日 2019年8月12日
主要参考資料 「信州の城と古戦場」他

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