浦賀城
(うらがじょう)

        神奈川県横須賀市東浦賀2-21      


▲ 浦賀城は後北条氏の水軍拠点として整備強化された城である。
そして、宿敵里見水軍との戦いの最前線基地でもあった。
(写真・城址の対岸、西浦賀の陸軍桟橋から見た城山。)

浦賀海賊衆の水軍城

 浦賀城を水軍拠点として整備・改修したのは北条氏康で、三崎城の支城としたとされている。

 しかし、元々ここを拠点としていたのは横須賀連秀であった。三浦義明(平安末期/衣笠城主)の末子佐原義連(佐原城主)の孫時連が横須賀氏を称したことにはじまる三浦一族で、連秀は九代目にあたる。永正九年(1512)からはじまった伊勢宗瑞(北条早雲)による三浦攻めは永正十三年(1516)に当主三浦道寸(義同)が新井城とともに滅んだことで終わった。この戦いで横須賀連秀は道寸と袂を分かち早雲側についたことで生き残った。連秀は三浦旧臣筆頭として後北条氏に仕え、その水軍(三崎十人衆)を率いて海上・沿岸の警備の任に就いた。

 十六世紀半ばになると安房里見氏との攻防が繰り返されるようになり、弘治二年(1556)には三崎城とその周辺に里見義弘率いる水軍による大規模な攻撃があった。戦いの結果は諸説あるが後北条方は里見軍の上陸を許したものの奮戦してこれを撃退したようである。しかし、この防戦一方の戦闘には苦戦したようである。そこで北条氏康は房総半島に最も近い浦賀城を整備することで敵の動きを監視し、場合によっては先手を打って出撃可能な態勢が取れるようにしたものと思われる。

 つまり、三崎城を三浦郡支配と江戸湾警備の拠点、浦賀城を房総攻撃の拠点とし、攻守セットの海城とした(「関東の名城を歩く南関東編」より)のである。

 そして氏康は水軍強化のために諸国から海賊衆の猛者を招致することにした。その一人が熊野水軍出身の愛洲兵部少輔で、氏康は彼に佐原の地を与えて浦賀に配している。

 後北条水軍と里見水軍の戦いは天正五年(1577)の房相一和を見るまで続けられ、浦賀の水軍衆(浦賀定海賊)も浦賀水道の海上を戦域として活躍したものであろう。

 里見氏との和睦後、後北条水軍の対戦相手は駿河を攻略して念願の海を手に入れた甲斐武田氏の水軍となった。当然、水軍の主戦場は駿河湾となり、浦賀城の役割も薄れていった。このことから、浦賀城の廃城の時期を天正五年(1577)とする見方もある。

 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻め(小田原城)の際に、浦賀海賊衆(水軍)は三崎城に立て籠もり、徳川勢と交戦した。小田原落城後は和睦して徳川水軍に編入され、船手奉行向井正綱の支配下となった。浦賀城はこの時に廃されたとも言われている。

 江戸中期(享保五年/1720)には浦賀に奉行所が置かれ、江戸湾を出入りする船に対する船改めが実施されており、この地が重要な地であることに変わりは無かった。嘉永六年(1853)に開国の親書を携えた米国艦隊が投錨したのも浦賀沖であった。その後浦賀は海防の重要拠点のひとつとなり、会津藩が浦賀とその周辺に台場を築いて江戸湾警備の任に就いている。

 万延元年(1860)、咸臨丸が浦賀を出港して太平洋を横断、サンフランシスコ向かった。咸臨丸艦長の勝海舟はこの壮挙にあたり航海の平安を祈念する断食修行をこの浦賀城跡の叶神社奥ノ院の社前で行ったという。


▲山頂(主郭)の叶神社奥の院。

▲城址(主郭南端)からの展望。眼前に浦賀水道。その先に房総の陸地が見える。

▲城址の南西麓にある叶神社。僧文覚が源家再興を願って勧進、後に源頼朝が源家再興の願いが成就したことから叶大明神と尊称したということである。

▲神社左手の石段を上って山頂に向かう。山頂には奥の院の社があり、そこが主曲輪跡であったものと思われる。

▲中腹付近に建てられている「勝海舟断食の碑」。

▲さらに山頂へと石段が続く。

▲奥の院の前に建つ「勝海舟断食の跡」の碑。

▲同説明板。

▲山頂の平坦部。主郭趾とされ、南端からは浦賀水道の先に南総安房の陸地が見える。

▲主郭部の東側には一段下がった所に腰曲輪状の平坦部が見られた。

▲主郭南端近くに立つ城址に関する説明板。
----備考----
訪問年月日 2013年1月4日
主要参考資料 「関東の名城を歩く・南関東編」
 ↑ 「古城の風景6」他

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