花平陣屋
(はなだいらじんや)

浜松市浜名区引佐町花平


▲ 花平陣屋は井伊谷、金指、気賀、大谷、花平に分家した近藤氏の陣屋の
ひとつである。采地は五近藤氏のなかで最も少ない320石であった。
(写真・花平陣屋跡の段丘部(右側の山林)と住宅入口の坂。)

五近藤最少の陣屋

 永禄十一年(1568)十一月、徳川家康の遠州進攻の先導役となったのが東三河の土豪の近藤康用、鈴木重時、菅沼忠久であった。彼らは後に井伊谷三人衆と呼ばれた。そのひとり近藤康用は子の秀用と共に家康の麾下で活躍、天正十二年(1584)からは井伊直政に属して活躍した。

 康用没(天正十六年/1588)後、家督を継いだ秀用はいつまでも井伊直政の麾下であることを好まず、家康の旗本に戻りたいと願っていた。

 天正十八年(1590)、小田原征伐後、秀用は直政の許しを得ずに井伊家を致仕して浪々の身となった。当初は追手の追及が厳しく伊勢に逃れたりしていたが、金指(引佐町金指)に所領を持つ子の季用のもとに身を寄せた。慶長七年(1602)、井伊直政が関ヶ原合戦の疵がもとで没し、秀用は徳川秀忠に召し出されて上州青柳五千石を賜わった。その後、家康の勘気も解け、慶長十九年(1614)には相州内に一万石を賜り、大名に列するまでなった。元和五年(1619)には幕府に願い出て所領を引佐郡とその周辺に領地替えとなり井伊谷に陣屋を構えるに至った。

 しかし、秀用は所領をすぐに子等に分知して旗本に戻った。寛永八年(1631)、小田原城代を勤めていた秀用は八十五歳で没した。遺領はさらに子等に配分され、ここに五近藤が成立した。すなわち井伊谷近藤氏五千四百五十石、金指近藤氏五千四百五十石、気賀近藤氏三千九百石、大谷近藤氏三千石そしてここ花平近藤氏三百二十石がそれである。

 井伊谷、金指、気賀、大谷の近藤氏はすべて秀用の子等の系統であったが花平近藤氏のみは秀用の弟用忠の子用尹に分知されたのであった。采地は花平村一村のみで五近藤の中では最も少禄である。

 旗本は基本的に江戸住まいであったため、知行地には陣屋を構え、代官を任じて領地支配を行っていた。少禄とはいえ花平近藤氏も江戸住まいであり、現地にはそれなりの陣屋を構え、代官を任じて知行地の経営を任せていた。

 ただ、花平近藤氏に関しては伝えられるものが少ない。寛文五年(1665)に花平村作兵衛の名が代官として伝えられているくらいであろうか。

 作兵衛は寛文十年(1670)に隣村の井伊谷村との境界北岡(引佐町井伊谷)の山に「近藤源兵衛領分」と書いた立札を立てて畑を拓きつつあったという。源兵衛とは花平近藤氏当主用久のことである。境界争いである。

 井伊谷近藤家の代官渥美喜兵衛は話し合いで解決しようとしたが作兵衛は合点しなかったようだ。喜兵衛は江戸に出て源兵衛家臣橋本兵右衛門に相談した。結果、今まで通り双方入会とし草刈場とすることになった。しかし、作兵衛は得心せず、さらに北岡の藪を伐り払い「源兵衛様やぶ垣」を結び、自己に有利なように論所(問題地)の絵図を描かせるために絵書きをその地に入れた。さらに、論所に井伊谷から五、六百人が入り込み松木二万本を伐り取り、垣根を破り、絵書きを打擲したと江戸の源兵衛に注進したのである。

 源兵衛用久は立腹して家臣橋本兵左衛門を現地に派遣した。ところが、兵左衛門が当地に来ると作兵衛のでたらめであることが判明した。江戸では井伊谷近藤氏当主彦九郎用将が源兵衛用久を呼び、「自分の代官であれば成敗するところだ」と立腹したという。源兵衛は赤面して退出、作兵衛は閉門、牢舎、妻子は追放の処分を下した。さらに江戸に戻った橋本兵左衛門にも「何のために遠州へ出向いたのか、おのれも作兵衛同様不届き者だ」と叱責したという。

 ところで、花平の陣屋跡である。他の多くの陣屋跡がそうであるようにここも遺構といえるものは残されていないようだ。もっとも、その所在地すら知られてないのが現状ではないだろうか。たまたま、郷土史家の方からの情報に接することができて、今回の訪問につながったしだいである。場所は地図表示に示したのでそちらを見ていただきたい。陣屋跡地には民家(石原氏宅)が建っており、周辺部より高い位置にある。その東側一帯も段丘となっている。段丘部には石垣も見られたが、明治期にここに分校が建てられた際のものであろうかと思われた。家主の方も世代が代わり、昔の事は分らないようである。


陣屋跡に建つ民家の入り口。形ばかりでも門が建てられていたのであろうか。

▲陣屋跡の住宅東側に見られた石垣。

▲陣屋跡の南を流れる谷下(やげ)沢。

----備考---- 
訪問年月日 2014年9月28日 
 主要参考資料 「引佐町史 上巻」他

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