(ひがみねとりで)
掛川市土方
▲ 火ヶ峰砦の主郭部を望む。周辺は区画整備された茶園が広がっている。
高天神城、
包囲網成る
火ヶ峰砦は徳川家康が高天神城を攻略するために築いたとされる六砦のひとつである。六砦とは小笠山砦、三井山砦、中村城山砦、能ヶ坂砦、獅子ヶ鼻砦とここ火ヶ峰砦のことである。 家康が築いたと書いたが、家康が新築したわけではない。もともと高天神城の周辺には多くの城砦が築かれており、これらの砦は本城である高天神城の支城砦群として存在していたのである。 但し、高天神城が天正二年(1574)に武田勝頼によって落とされてからは、これらの支城砦群がどの程度武田方によって活用されたのかはわからない。おそらくは相良方面から塩買坂付近を経て高天神城に至る補給線を維持するために武田方の兵が小規模ながらも常駐していたであろうことは推察できよう。 ここ火ヶ峰砦は高天神城の支城砦群のなかでも最も規模の大きい砦であり、高天神城の東正面に位置している。 天正八年(1580)、武田の衰退を見て取った家康は高天神城の攻略に向かって積極的に動き出した。横須賀城を築き、これを拠点として三井山砦、中村城山砦といった高天神支城砦群を次々に奪取して兵を置いた。高天神城を守るはずの城砦群が逆に高天神城を孤立させるための包囲網を形成する砦に変身してしまったのである。 記録では横須賀城主大須賀康高の持口であったと云われている。おそらくは横須賀城を根拠地として康高配下の横須賀衆が日常的に高天神城周辺に出撃を繰り返し、これらの支城砦群の奪取に大きく貢献したものではないだろうか。 天正九年三月、武田勝頼からの救援も途絶え、兵糧も尽きた高天神城の武田軍は全軍が打って出て壮烈な最期を遂げたのであった。 |
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画像の撮影時期*2007/07 |