(ししがはなとりで)
菊川市大石
▲ 正面の山の頂が砦主郭部で、南側からの望見である。山の
かたちが獅子の頭に似ていることから名付けられたという。
敵の砦を奪い、
攻めの砦となす
この砦も他の砦(三井山砦、小笠山砦、中村城山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦)と同じく高天神城の外郭城砦群のひとつであり、高天神城の東3kmに位置している。 戦国時代当時、ここには大きな川が流れ、その下流には大きな沼池があって湖水の如くであったといわれている。その川の渡し場として獅子ヶ鼻の名が出てくるところから、この砦が交通路の監視所としての役割をもっていたということがいえる。 元亀二年(1571)三月、武田信玄が二万余の大軍を率いて駿河から遠江に進攻、塩買坂(御前崎市新野)に陣取った。 徳川方の高天神城主小笠原与八郎長忠も兵を出して武田群の来襲に備えたのであるが、この時に獅子ヶ鼻砦にも本間八良三郎、丸尾修里亮、斎藤宗林ら二百五十人が進出したようである。 この時の戦いは武田の先鋒内藤昌豊の巧みな戦法によって城外に出ていた城方の軍勢はことごとくが城内に押し戻されてしまった。その後信玄は長期戦となる城攻めを避けて軍を返し、甲州へと引き揚げた。 天正二年(1574)六月、信玄の後を継いだ武田勝頼によって高天神城が落とされた後もこの砦には補給路の維持監視のために武田方の兵が常駐していたはずである。 天正八年(1580)になると武田と徳川の形勢は逆転して武田の高天神城への支援も途絶えてしまった。六月、徳川家康は高天神城の東側に点在する砦群を一気に攻め取り、高天神城の包囲を完全なものとした。 砦の改築には松平家忠があたった。各郭は段々に構えられているが土塁は築かれなかったようである。砦の受持ちは横須賀城主大須賀康高で、その配下の部将が陣取ったと思われる。 翌九年三月、兵糧の尽きた高天神城は城兵全員が打って出て玉砕、落城した。 |
▲ 菊川市営保養センター小菊荘の玄関前に砦の主郭に至る登山口がある。 |
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画像の撮影時期*2007/07 |