泉頭城
(いずみがしらじょう)

静岡県駿東郡清水町伏見


▲泉頭城は後北条氏によって国境(境目)の城として築かれ、維持された。
(写真・西曲輪と出丸の間の湧水地は柿田川の源流でもある。)

国境の城

 富士山の雪解け水が湧き出すことで知られる国指定天然記念物「柿田川」の水源地(湧水地)は現在柿田川公園として湧水観察の展望台や水遊び場などが整備され、多くの人々がここを訪れている。この柿田川とその洞(浸食谷)や湿地を利用して築かれた城が泉頭城なのである。柿田川公園とその周辺部が城址となる。

 弘治年間(1555〜58)に後北条氏が築城、多米周防守らが守備したと伝えられている。この時期は甲相駿三国同盟成立の直後にあたり、駿河今川氏との関係も緊張状態にはなかったものと思われる。

 永禄十一年(1568)、武田信玄の駿河進攻により三国同盟は破綻となり、北条氏政は今川氏真を支援するために駿河へ出兵した。この頃より武田氏との抗争に備えて城の改修に手が加えられたことであろうことが想像される。

 その後、駿河における武田氏の支配は拡大し、後北条氏の支配地域は駿東郡の黄瀬川以東に後退してしまう。元亀二年(1571)、北条氏政は再び甲相同盟を結んで武田信玄との争いを避けようとした。

 天正七年(1579)、越後の上杉謙信亡き後の後継者争いである「御館の乱」後、北条氏政は甲相同盟を破棄して徳川家康との連携を進めた。このことで泉頭城は武田領に接する国境の城としての重要性が増大し、後北条氏による城郭普請が急ピッチで進められたようである。

 天正九年(1581)に後北条氏は泉頭城の南1.5kmほどの狩野川対岸に戸倉城を築いて武田方の三枚橋城(沼津城)に対抗した。ところが城番として配された笠原政堯は武田方に寝返ってしまう。泉頭城の城兵らは武田方の仕掛ける競り合いに応戦しつつ城を守り続けた。

 天正十年(1582)、織田信長の甲州征伐によって武田勝頼は滅亡(鳥居畑古戦場)した。

 その後も徳川領に接する国境の城として維持され続けたが、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐時に城兵は山中城韮山城へ集約されることになり、城は放棄された。

 元和元年(1615)、豊臣秀頼を大坂城に滅ぼした徳川家康は駿府城へ戻ると間もなく江戸城へ入った。関東各地で放鷹した後の十二月に駿府へ戻るのだが、その帰途にここ泉頭城跡が気に入ったようで、隠居所と定めたという。本多正純や土井利勝に縄張りを命じたが、翌元和二年(1616)四月に死去したため、隠居所の造営は実現せずに終わった。


▲公園内の湧水広場。かつては本曲輪と西曲輪を区切るニノ洞であった。現在では水遊びに興じる親子で賑わっている。

▲西曲輪南端の貴船神社。公園内で唯一城跡の雰囲気を感じられる場所でもある。

▲柿田川公園の駐車場。かつての本曲輪跡である。

▲本曲輪跡の南側は湿地帯となっており、木製の歩道が設置されている。

▲本曲輪南端の柿田川の流れ。かつての船着曲輪跡である。柿田川を下れば2km足らずで戸倉城と連絡できる。

▲船着曲輪跡の「わき間」。地下水が湧き出す部分を「わき間」と呼ぶ。円形に囲まれているのはかつて製紙会社が使用していた井戸跡である。

▲公園の芝生広場。かつての西曲輪跡である。

▲西曲輪西側の谷底は公園の第2展望台が設置され、青く見えるわき間が観察できる。

▲公園の片隅に掲げられた泉頭城の説明板。この説明板を見てここが城跡であることを知る人が多いのであろう。

▲説明板の城跡見取り図。

▲説明板。

----備考----
訪問年月日 2018年8月16日
主要参考資料 「静岡県の城跡」

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