柳生城
(やぎゅうじょう)

奈良県奈良市柳生下町


▲柳生城は戦国時代、柳生家厳の時に筒井氏との戦いでその名が
登場するが、創築の時期は分らない。柳生氏が土豪として戦国を
生き抜く過程で整備されたものであることは間違いないだろう。
(写真・芳徳寺山門前に残る土塁と「石舟斎塁城址」の碑。)

世の海を渡りかねたる石の舟かな

 柳生の里はいつ訪れても風光明媚で静かな山里の風情を肌で感じさせてくれる。

 その柳生の里は平安の昔、九世紀の終わり頃、ここ柳生郷は関白太政大臣藤原基経の荘園であったと言われる。基経から六代目の頼通のとき、長暦の頃(1037-40)、柳生郷は藤原氏の氏神である春日神社に寄進された。この時、柳生郷四ヵ庄のひとつ小柳生庄の荘官となったのが大膳永家で菅原氏であったという。その後、多くの荘官が荘園を押領して自立のために武士化してゆくが、永家あるいはその子孫が柳生氏を名乗るのもそうした過程でのことであったろう。鎌倉期に入ると柳生氏は当地の地頭として認められたが、永家後の柳生氏の事績はようとして分らない。

 元弘の乱(1331)の際に柳生永珍(ながよし/ながはる)が笠置山(笠置城)に還幸された後醍醐天皇の召しに応じて古城山(柳生古城)に陣したことが伝えられている。

 その後の柳生氏の足跡は明確ではなく、永珍から六代目の家厳(いえよし)の時に至り、土豪としての様子がうかがい知れるようになる。

 この頃、河内畠山氏重臣の木沢長政が天文五年(1536)に信貴山城を築いて大和進出の拠点としていた。天文十年(1541)、木沢長政は笠置城を修築して甲賀衆に守らせた。柳生家厳は木沢氏に属して筒井氏の攻撃を受ける笠置城を支援したと言われる。翌年、河内の戦乱で木沢長政が戦死すると大和の中心勢力である筒井順昭が台頭して天文十三年(1544)にはついに柳生へ攻め込んできた。その兵力は一万余と言われる。

 この時に家厳をはじめとする柳生一党の拠ったのがこの城であった。史料的には小柳生城として登場する。家厳四十九歳、嫡男宗厳十八歳であった。大軍を相手に柳生勢は善戦したが外城(柳生古城か)を落とされ、水の手を断たれたために攻防三日目にして家厳は宗厳を人質に出して順昭に降伏した。

 筒井氏の人質となった若き宗厳は剣術、槍術の会得に集中し、兵法者として成長してゆく。筒井氏の大和支配の過程で宗厳も筒井方の武将として戦場で活躍した。

 永禄二年(1559)、松永久秀による大和進攻がはじまった。柳生家では筒井氏への味方を続けようとする家厳であったが松永方へ付こうとする宗厳の意見を容れて久秀の麾下に入った。永禄六年(563)の多武峰合戦では殿軍となって奮戦、久秀から感状を送られる活躍を示した。

 この頃、宗厳は新陰流の兵法者上泉信綱と出会った。諸国遍歴を続けていた信綱が奈良宝蔵院に寄宿していたのである。宗厳は信綱に試合を申し入れて挑んだが、完敗であった。兵法者として幾多の合戦で鳴らした剣技も信綱には通用しなかったのである。宗厳は即刻信綱に入門したという。数年後、宗厳は「無刀取り」の秘技を体得した。

 永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛した。松永久秀は信長に臣従して大和一国の進退を任された。宗厳は久秀方の武将として重用されており、織田軍の大和派兵の際にはその先導役となったと言われる。但馬守に任じられたのもこの頃であった。

 天正五年(1577)、松永久秀は信長に反抗して信貴山城に滅んだ。久秀滅亡後、宗厳は柳生の庄に隠遁した。新陰流の鍛錬に徹する日々であったろう。

 天正十年(1582)、信長が本能寺に斃れ、豊臣秀吉の時代となる。天正十三年(1585)、太閤検地で隠田が摘発され、宗厳は所領を没収されてしまった。同じ時期、近江八幡山城主となった秀吉の甥秀次に仕え、百石を与えられた。宗厳は秀次に新陰流を相伝した。

 文禄三年(1594)、黒田長政の引き合わせで宗厳は徳川家康の陣所とする京都鷹ヶ峰に赴き、「無刀取り」の秘技を披歴した。家康は感動して宗厳を召し抱えようとした。しかし宗厳は老齢(前年剃髪して石舟斎と号す)を理由に辞退し、五男宗矩を推した。

 宗矩は家康に仕え、関ヶ原合戦後には柳生の旧領二千石を回復して三千石の旗本となった。そして徳川家の兵法師範となり、二代将軍となった秀忠の指南役をつとめた。

 慶長十一年(1606)、兵法者として戦国の世を生きた宗厳もこの年、この世を去った。石舟斎の名は「宗厳兵法百首」の中の「兵法の 勝ちをとりても 世の海を 渡りかねたる 石の舟かな」からきていると言う。

 元和七年(1621)、宗矩は徳川家光の兵法指南役となり新陰流を伝授する。寛永九年(1632)には三千石を加増され、幕府惣目付に就任した。

 寛永十三年(1636)、四千石を加増されて大名に列した。

 寛永十五年(1638)、宗矩は天文十三年の筒井勢との戦い以来手付かずとなっていたであろう柳生城跡に父石舟斎宗厳の供養のために芳徳寺を建立した。開山は宗矩と親交の深い沢庵和尚であった。


▲芳徳寺山門前から見た柳生城主郭部の山林。
 ▲市営観光者用駐車場の入り口。
▲駐車場前から芳徳寺への坂道の途中から見えた柳生の里。

▲坂道の中程にある正木坂道場。

▲道場の反対側に小さな小屋がある。ここが城址への入り口となる。

▲小屋から山中に入ると堀切跡に出る。

▲堀切から北へ進むと主郭南端に出る。

▲主郭跡。

▲柳生家菩提寺である芳徳寺。この寺の裏手に柳生家の墓がある。

▲芳徳寺山門前に残る土塁跡。

----備考----
訪問年月日 2014年5月3日
主要参考資料 「別冊歴史読本・柳生一族」他

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