幡鎌城
(はたかまじょう)

                 掛川市幡鎌         


▲ 幡鎌城は当地に居館を構えていたという幡鎌氏に関連するものなのか明確ではなく、
謎めいた城跡である。(写真・主郭から東に伸びる尾根。曲輪状の緩い段差が見て取れる。)

川淵に築かれた古城

 幡鎌城は掛川市幡鎌の最福寺の裏山に築かれた城である。南西方向に流れる原野谷川がここ幡鎌の地にぶつかって南へとその流れを変えており、このため昔は深淵に臨みし村と言われていたようだ。この深淵を天然の外堀とする幡鎌城であるが、その築城者や歴史となるといまだに解明されていないのが現状である。城址のある最福寺付近は幡鎌氏の居館があった所とされている。
 幡鎌氏は天文十八年(1549)に太原雪斎率いる今川の大軍勢に加わって三河に出陣している。この三河出陣で今川勢は松平氏を援けて織田方の安城城を攻め落としているが、この一連の戦いで幡鎌氏は安城・桜井に出撃して敵をくい止めたことを賞されて今川義元から感状を得たという。名は幡鎌平四郎義范という。出自は代々甲斐武田氏の家臣であったとも言われているが定かではない。
 幡鎌氏の歴史をまとめた「遠州幡鎌氏とその一族/補遺」(幡鎌芳三郎・著)には「信じられる幡鎌家の最も古い人は、平四郎(義范)であって…」とあり、「先祖は代々武田家に仕えたものでなくて、遠州幡鎌村の地侍が戦国時代の常として、地方を支配していた武将の盛衰によって今川義元に従って三河まで出陣したこともあったが、後に今川氏の勢力が衰えてから武田勢に属し、穴山梅雪の家来となって各地に転戦したもののようである」としている。
 同書によって幡鎌平四郎以後のことを簡単に記してみるとこうなる。桶狭間合戦の翌年の永禄四年(1561)には、平四郎は武田氏に属して嫡男右近丞義昌とともに川中島の合戦に参陣、戦功があった。元亀三年(1572)三方原の戦いには義昌と嫡男義康が参戦、義昌戦死して義康が重傷を負った。戦後、義康は犬居城主天野氏を頼って療養、後に天野氏家老木下隼人正の娘と結婚して木下姓を名乗る。また一族と思われる幡鎌又衛門と養子庄三郎は穴山梅雪の死後、水戸徳川家に仕えた。

 今川義元敗死後、いち早く武田氏に従った幡鎌氏であったが、原野谷川対岸の本郷を本拠とする原氏との関係は一切伝えられていない。気になるところであるが仕方ない。結局、原氏も今川氏滅亡後は武田氏に属し、三方原合戦にも従軍しているが、その後に籠城した各和城を徳川家康に攻められて遠江を退去してしまった。いずれにしても原野谷川流域の幡鎌を含む地域は各和城落城の天正元年(1573)以降は徳川氏の支配する所となり、幡鎌氏の足跡もかき消されてしまったかのようである。
 では、幡鎌城は幡鎌氏とは関係ないのであろうか。地侍幡鎌氏が単独で山城を築くとは考えられないことであるが、武田氏の支援を得て、あるいは武田氏そのものが自らの拠点とするために築いたものなのかも知れない。さらに別の見方もできる。原氏が去り、幡鎌氏も去った後に原谷郷(原野谷川流域)に進駐した徳川勢が武田勢の来襲に備えて構築したものかも知れない。
 いずれにしても未完成の城であるとも言われており、遺構そのものは薄く、明確なものではない。今後の調査研究が期待される城跡でもある。


▲ こうして見ると堀切のようだが、単なる山道の通路(切通し)ともとれる。

▲ 幡鎌城址遠景(南側から)。

▲ 最福寺の山門。この裏山が城址となる。

▲ 最福寺の墓地から高みを目指して直登する。ちょうど写真の中央あたりに向かえば切通しが現れる。

▲ 主郭西側には空堀状のくぼみが10mほど伸びている。

▲ 主郭(曲輪)。山頂部分は円形の削平地のようで土壇状の膨らみも見られる。

▲ 尾根上の段々(曲輪)の間には浅くなった堀切跡ともとれるくぼみが見られた。
----備考---- 
訪問年月日 2012年3月3日 
 主要参考資料 「遠州幡鎌氏とその一族」
 ↑ 「遠州幡鎌氏とその一族・補遺」他 

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