亀井戸城
(かめいどじょう)

               磐田市下野部        


▲亀井戸城は城史不明の城であるが元亀三年(1572)当時に
武田信玄が本陣を構えた陣城ではなかったかと見られている。
(写真・住宅地の裏山全体が城址である)

合代島本陣か

元亀三年(1572)十月、大軍をもって遠江侵攻を開始した武田信玄は木原(袋井市)、見付(磐田市)を席巻して一言坂に徳川家康を敗走させ、天竜川東岸沿いに北上して合代島に本陣を据えた。ここで信玄は二俣城攻略の指揮と徳川援軍の阻止を図ったのである。

合代島という地名は磐田市北部の旧豊岡村地内にある。しかし、信玄が本陣を構えたとされる陣城の位置は特定されていない。そこで浮上してくるのがこの亀井戸城なのである。少し前までは社山城が信玄の合代島本陣であったとされていたが近年では亀井戸城こそが信玄の合代島本陣であるとの見方が主流となっている。

この亀井戸城、創築者、創築時期ともに不明の城とされているが、土豪と思われる野部氏の根城であったとも考えられると城館資料にある。

この野部氏というのは尾張織田氏の家臣で織田越後守当信(まさのぶ)という武士で遠江野部庄を与えられて移住、地名を名乗ったものとされる。また、当信は織田信秀(信長の父)の一字を賜り、秀当と改名したと言われる。野部越後守当信は後に馬伏塚城主として出向いている。永禄十二年(1569)、徳川方としてであったのであろう。

ところが天正二年(1574)六月、武田勝頼の高天神城攻略の際に馬伏塚城も武田勢に攻められて落城、当信は嫡男当公(まさきみ)とともに討死した。当信の妻は次男三男を引き連れて城を脱出、野部村を目指した。野部村の隣の敷地村まで来たところで武田勢に見つかったため、当信の妻は家来に子等を織田信長のもとへ届けよと逃がすと敵中に斬り込んで討死してしまった。天正十年(1582)、次男野部越後守当久(まさひさ)は本能寺にて信長とともに果てたという。

無論、野部氏が築城者であったとの確証はない。戦国大名今川氏によって整備された城かもしれない。

現在城跡は、史跡としては放置状態にある。


▲城址北端を流れる一雲済川。天然の堀となっている。

▲城址西側の山林。

▲東側、宅地の裏山が城址である。

▲コの字状に突き出た出丸跡。

▲一雲済川と城址(右の山林)。
----備考---- 
訪問年月日 2023年1月21日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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