堀之内城山
(ほりのうちじょうやま)

             浜松市天竜区春野町堀之内         


▲ 堀之内城山は城の位置や築城形態などから、現在では徳川家康によって犬居城攻め
の際に築かれた陣城(付城)であったと見られている。400年以上眠り続けてきた
戦国の山城が私たちの目の前に蘇った。そんな感動を与えてくれる城跡である。

家康、犬居攻めの陣城か

 天正三年(1575)、北遠の要衝二俣城を奪還した徳川家康は翌天正四年(1576)春頃から犬居城を本拠とする武田方天野氏の攻略に取り掛かった。犬居へ進撃した徳川勢は天野氏の支城である樽山城(犬居城の北東約12km)を落として気勢を上げた。
 犬居城主天野宮内右衛門尉藤秀は樽山城を落とした徳川勢が背後に迫ることによって武田方との連絡が絶たれ、孤立することを恐れたのであろう。藤秀は犬居城を捨てて気田川上流の勝坂城(犬居城の北約12km)に移り、追撃の徳川勢と戦った。しかし利あらず、ついに遠江を逃れて甲斐に落ちて行った。
 天正四年の家康による犬居攻略に関しては以上のように天野氏は樽山城の落城と勝坂城付近の戦いの後に遠江を退去したということが伝えられているにすぎない。無論、史料に記されていることのみが歴史のすべてではない。かえって記されなかったことの方が多いはずである。
 この堀之内城山も歴史に記されずにきた山城のひとつであろう。当初は犬居城の天野氏の支城のひとつと考えられていたが、平成二十二年(2010)の発掘調査で出土した遺物が十六世紀後葉とされたことや、城の形態、立地などから現在では天正四年の徳川家康による犬居攻めの際に築かれた陣城ではなかったかと見られている。
 二俣城攻略の頃から家康の城攻めは陣城(付城)を周囲に築いて敵方の城を孤立させる戦法を取り始めている。その後の高天神城攻略戦においても多くの付城群を築いていることはよく知られている。この犬居攻めにあたって家康が付城を築いたということは伝えられていないが、二俣城攻め同様に付城戦術で臨んだことは十分考えられることである。
 この城は犬居攻めの後、すぐに廃されたために天正初期の形態をそのまま残していると言われる。
 私たちは今、尾根筋に並ぶ小さな曲輪、堀切、土橋など430余年前の姿とほぼ同様なかたちで目にすることができるのである。規模は小さいものの大きな感動を得られる希少な城跡といえる。

▲ 本曲輪。西端には土塁跡が残る。

▲ 堀之内城山コース入口の林道。

▲ 林道のこの表示の所から山路を登る。

▲ ジグザグの斜面路を登りきると山の上の別の林道に出る。

▲ 林道に出て東に進むとすぐ左手に大日如来像が道行く者を見守るように座していた。

▲ 林道の丁字路。西(右)へ向かうと城山である。

▲ 林道の行き止まりは城山の入り口である。

▲ 尾根上に小曲輪が並ぶ。

▲ 堀切。

▲ 腰曲輪。

▲ 二の曲輪。

▲ 本曲輪西端の土塁。

▲ 三の曲輪。
----備考---- 
訪問年月日 2011年12月18日 
 主要参考資料 「浜松城時代の徳川家康の研究」
 ↑ 「静岡の山城ベスト50を歩く」 
 「北遠の城2008」他

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