臼子城
(うすごじょう)

           新城市豊栄          


▲ 臼子城跡。道路の右側の丘が城跡である。目前のこの
道路は国道301号線で、北上(手前方向)すると作手に至る。

奥平氏、南の境目城

 臼子城は永正二年(1505)に奥平氏によって築かれたと云われている。

 この年は、崩壊状態にあった富永氏が菅沼氏(田峯城)から定則を主として野田館に迎えている。臼子城はそれに先立って築かれた(「千郷村史」)とされているが、その経緯についてはよく分からない。ちなみに当時の奥平当主は貞昌である。

 ともかく臼子城は奥平氏にとって最南端に位置する城となり、そこは奥平の本拠地作手郷(亀山城)へと続く街道の入口でもあった。城主として入ったのは奥平家臣の佐宗大膳である。

 大膳の後は子の勝重が継いだ。

 天文十四年(1545)、豊川沿いに勢力を伸ばしていた菅沼定継(新城古城)が臼子城に矛先を向けてきた。佐宗勝重は防戦したが、城は落ち、菅沼氏のものとなってしまった。

 弘治二年(1556)、菅沼一族が織田方と今川方に分かれて争う布里合戦(布里城)、雨山合戦が起きた。菅沼当主である定継と奥平当主の貞勝は織田方に付いたが、定継らの敗死によって奥平氏は直後に今川方へ帰順している。戦国の世を生きる術に長けていたといえよう。そして貞勝の嫡男貞能が臼子城を攻めて、菅沼の手から取り戻したのであった。貞能は先の城主佐宗勝重の子重昌を城代とした。

 時は移り、東三河の地は織田、今川の争いの後、徳川と武田の抗争の地へと変わっていた。天正三年(1575)、奥平貞能の跡を継いだ貞昌は徳川家康の命によって長篠城主となり、対武田の最前衛となった。

 この時、臼子城は佐宗重昌に替わって奥平一族の奥平久嘉(休可)が城代として入った。「三河二葉松」には、「奥平休可という兵法師住す」とある。奥平家中でも軍略に通じた武将であったのだろうか。

 天正十八年(1590)、奥平氏の関東移封により、臼子城は廃城となった。奥平休可は土着、その子孫は当地にて明治を迎えた。

 ちなみに、休可と城代を替わった佐宗重昌は天正三年(1575)の長篠合戦で徳川軍に属して戦い、武田の武将馬場美濃守を討取る戦功を上げている。戦後、信長と家康から感状と太刀を賜わったという。
 ▲ 城址山頂部は杉林となっているが、平坦な地が広がっている。手前の小高くなっている部分は櫓台の跡と見られており、現在は墓地となっている。
▲ 櫓台跡の脇に建てられている城址の標柱。長年放置状態にあるのか、文字は消えてしまっている。



----備考----
訪問年月日 2008年6月
主要参考資料 「日本城郭全集」他

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