神田山砦
(かんだやまとりで)

               磐田市上野部       


▲神田山砦は二俣城攻略時に武田勢が、また後に徳川勢が利用したものとみられている。
(写真・砦跡の直下の県道40号から見上げる神田山)

天竜川監視の砦

元亀三年(1572)十一月、武田信玄は大軍をもって青崩峠を越えて遠江へ侵入、武田勝頼に三千の兵を与えて二俣城攻略に充てた。そして自らは二万余を率いて天方城飯田城を抜き、木原(袋井市)に至り、徳川勢を追って一言坂に破った。その後、天竜川東岸を北上して合代島を本陣とし、二俣城攻略を支援した。

この時の合代島の本陣というのが明確でなく、従来は社山城がその候補とされてきたが近年では亀井戸城が合代島の本陣に比定されている。神田山砦は亀井戸城の北西約3kmにある。攻略中の二俣城からは約2kmの距離である。二俣城攻略の最前線と合代島本陣を結ぶ連絡線の中継地であったかもしれない。同時に天竜川そのものの監視所であったとも考えられる。二俣城救援の徳川勢の渡河は許してはならないのである。

結局、二俣城は武田勢の完全包囲により一ヶ月余りの籠城の末に開城となり、武田方の城となった。

城館資料によれば「野部村誌」に「神田山近藤原は、天正年間近藤伊勢守が一城塞を築いて拠っていた所である。今その高地の内百坪許の所を近藤原という。その北に取手山と名付ける小山がある」とのことである。

天正年間というのは天正三年(1575)のことであろうか。この年、徳川家康は織田信長と協力して武田勝頼を長篠設楽原に大敗させた。家康はこの機に二俣城の奪回に乗り出し、周辺に城砦群を築いて包囲した。当然、この神田山も砦として利用されたはずである。近藤伊勢守なる人物に関してはよくわからない。家康の家臣なのか、地元の地侍なのかもわからない。

 ちなみに二俣城の武田勢は半年ほど持ち堪え、開城して退去した。


▲天竜川と二俣城方面を望見。

▲天竜川の対岸から見た神田山砦。
----備考---- 
訪問年月日 2022年11月13日 
 主要参考資料 「静岡県の中世城館跡」他

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