ただらいじょう
(ただらいじょう)

                 浜松市天竜区只来          


▲ 城址北方の光明城跡から望見した只来城跡。中央に見える川は二俣川
 で、その右側の尾根が城址である。遠景は天竜川と浜松市街である。

武田軍、
     繋ぎの城

 元亀三年(1572)十月、武田信玄率いる大軍が青崩峠から遠江へ進攻してきた。徳川家康を叩きのめしたあの三方原の戦いへの幕開けであった。
 すでに北遠の国人奥山氏と天野氏は武田方に属しており、信玄は天野氏の居城犬居城まで一気に駒を進めた。ここで信玄は勝頼に三千の兵をつけて二俣城の攻略に向わせ、自らは本軍を率いてさらに南下、天方城、飯田城を落として東海道へ出た。
 二俣城の攻略に向った勝頼軍はその途上にある只来城を落とし、ここに城番を置いた。
 この城からの眺望はよく、二俣城はもとより信玄がその後本陣を置いた合台島、そして東海道、家康の居城である浜松城までもが見渡せた。
 二俣城が武田のものとなった後もこの城は、信州から北遠、二俣城を結ぶ補給線の役割を果たして機能していた。所謂、繋ぎの城である。
 信玄亡き後を継いだ勝頼は天正元年(1573)に家康を牽制するかのように犬居城、光明城、只来城、二俣城を巡見したと記録にある。遠江制覇を目指す武田にとってはこれらの諸城は重要な城砦群であったのである。
 しかし、天正三年の長篠合戦における武田軍の大敗の影響は大きく、徳川家康による遠江の武田方に対する反撃を誘う結果となつてしまった。とくに北遠に対する反撃は素早く、長篠合戦の翌月には光明城とともにここ只来城も徳川勢によって落とされてしまった。
只来城址
▲ 只来の集落から見た城址。尾根筋に堀切と
  小曲輪を設けた程度の簡単な山城である。
----備考----
画像の撮影時期*2005/01