(すぎやまはじょう)
市指定史跡
新城市杉山
▲ 杉山端城跡を示す城址碑と、世の移り変わりを見続けてきた
稲荷祠。かつての城域は宅地化して遺構はみとめ難い。
わが城は端城なり
永禄四年(1561)、新城古城で今川軍を撃退(石田合戦)した菅沼定氏は野田城の菅沼定盈と同じく岡崎城の松平元康(徳川家康)に従っていた。この合戦の勝利で元康の定氏に対する信頼は高まったはずである。 同時期に元康から定氏ら菅沼一門に対し、宗家(田峯城)の本領安堵が認められている。定氏にとっては宗家の安泰はこの上ない喜びであったに違いない。 心機一転、定氏はそれまでの城(新城古城)を引払い、家臣ともどもここに移って城屋敷を構えた。方形に土塁で囲んだだけの館城である。永禄五年(1562)のことであった。そして端城と称したのである。 「端城」の意に関してはいくつかの解釈があるようだが、一般的には「支城」と解されている。そうだとすると、支城には本城がなければならない。定氏にとっての本城は宗家の居住する田峯城ということになる。そして自らその支城主たらんとしたのではないだろうか。宗家を尊び、自らの居城を端城と位置付けたのである。定氏の人柄の一端が垣間見えたような気がするが、私の考え過ぎであろうか。 元亀元年(1570)、田峯の菅沼宗家が武田氏に降った。圧倒的な武力の前には仕方のないことであったが、定氏は徳川に随従する道を選んだ。菅沼宗家に代わって家康の恩義に報いようとしたに違いない。そしてまた敵味方に分かれることが一族を滅亡から救う手段でもあったのだ。 この年、定氏は戦いに備えるためか、道目記城を築いてそこへ移った。移ってからも杉山端城は廃されることなく維持された。 元亀四年(1573)、武田軍が東三河に進攻、野田城を攻めた。この時、信玄は道目気城を接収して本営とした。城主定氏は家康に従って浜松城に出向いており、端城は今村、石田、今泉、塩瀬といった家臣らによって守られていた。武田軍の進攻に際しては逆らうことなくこれに従っている。これも仕方のない事であった。 天正三年(1575)の長篠合戦後、長篠城主であった奥平信昌が新城城を築いて新たな領主となり、端城もその支配下に置かれた。 以下、「千郷村史」によってまとめてみる。 新城城の奥平氏の支配下となった時、今泉七郎左衛門が端城の城代となった。 天正十八年(1590)、奥平氏が関東へ移り、東三河は池田照政(吉田城)の所領となった。端城は池田家臣片桐半右衛門(石田城)の支配となり、高木又左衛門が城代となった。 慶長五年(1600)の関ヶ原合戦後、井道(端城の東約2`)の代官となった菅沼三照の支配となり、菅沼藤七が城代を務めた。 慶長十年(1605)からは新城城主となった水野分長の支配となり、山口弥右衛門が城代となった。 正保二年(1645)、水野氏の上州移転により、廃城となる。 |
▲ 城跡の一部は国道151号バイパスの建設によって失われてしまった。城址碑のそばの稲荷祠のみが道路工事の際に現在地に移された。 | ▲ 城の唯一の遺物となってしまった稲荷祠。永禄五年二月四日菅沼十良兵衛定氏と刻まれている。定氏が領内の豊作を祈って建てたものであろうか。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2008年6月 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」他 |