朝日山城
(あさひやまじょう)

市指定史跡

静岡県藤枝市仮宿


▲朝日山城は当地岡部郷を本貫地とした岡部氏の城とされる。館跡が東麓に
あったと言われ、朝日山城は有事の際の詰城と位置付けられているようだ。
(写真・朝日山城一ノ曲輪跡。)

今川重臣岡部氏の古城

 朝日山城のある岡部郷は平安期に藤原南家工藤氏の流れを汲む入江権守身清綱の所領地であったとされ、二代泰綱が鎌倉期に当地の地頭となり岡部氏を称して居館を構えたこところである。

 南北朝の争乱期には足利尊氏に従って東奔西走したといわれ、今川氏の駿河入国後はその被官となって朝比奈氏と並ぶ重臣の地位にあったとされる。しかし、室町期における岡部氏の事績は伝えられることが少なく、その名が史上に現れるのは戦国期に入ってからである。当然、朝日山城の築城もいつのことであったのか分らない。

 天文四年(1535)、今川家の家督をめぐる争いが起きた。「花倉の乱」(花倉城)である。この乱で岡部氏は承芳(今川義元)方に付いて乱を起こした恵探と重臣福島氏の立て籠る方ノ上城(焼津市)を攻撃して落としている。一族を率いたのは左京進親綱であった。

 親綱の後、久綱、正綱と三代にわたり義元に仕えた。岡部一族で名を馳せた武将として元信の名がある。正綱の弟とも言われるが定かではないようだ。

 元信は早くから戦場で活躍しており、天文十七年(1548)の小豆坂合戦、翌年の安城城の戦いで戦功を上げ天文二十一年(1552)頃からは尾張の最前線に出向しており、今川勢きっての闘将であったことがわかる。永禄三年(1560)の桶狭間合戦時には鳴海城の守将となっている。桶狭間合戦後、元信は開城と引き換えに主君義元の首を取り返して帰国したことはよく知られている。

 永禄十一年(1568)、義元亡き後を継いだ氏真であったが三河、遠江の諸氏から見放され、ついにこの年には隣国甲斐の武田信玄に国内侵攻を許すに至ってしまった。武田勢は駿府の今川館に押し寄せ、氏真は一目散に脱して遠江掛川城に逃走したのである。この時今川館に踏み止まって果敢に戦っていたのが岡部正綱であった。信玄は正綱を天晴れと見込み、礼を尽くして迎えたと言われている。

 その後、岡部氏は武田家臣として生きて行く。桶狭間で活躍した元信も今度は武田の最前線となった遠江高天神城の城将として入城した。高天神城の戦いは七年の長期戦となり、糧食尽き、矢玉尽き果て、天正九年(1581)に至り、元信以下全城兵が打って出て玉砕した。高天神城の落城は武田氏滅亡の序曲となった。徳川家康は破竹の勢いで駿河に進出、駿河を担当する武田重臣穴山信君は降伏した。

 穴山信君の降伏によって岡部正綱は家康に仕えることになった。武田旧臣の調略に尽力したというが、天正十一年(1583)に没した。

 正綱の後、子の長盛が継いで小牧・長久手合戦に戦功があり、天正十八年(1590)の家康関東移封の際には下総山崎一万二千石に封じられた。

 長盛はその後累進を重ね、寛永元年(1624)には美濃大垣五万石(大垣城)を拝領した。長盛の次代宣勝は最終的に岸和田六万石の大名となり、以後代を重ねて明治に至った。

 朝日山城がいつ頃廃されたかは分らない。武田氏の手が加えられた形跡がないため、今川氏没落後は放置状態にあったと思われる。


本城部南方の高所、南曲輪から見た朝日山城

▲朝日山城とその周辺の城砦を示した鳥瞰図。
 ▲参詣者、訪城者用に整備された駐車場。
▲登城口は朝日稲荷神社の入り口でもある。

▲登城路に入ると説明板が立っており、鳥瞰図が目を引く。左下に地面が裂けているように描かれているのが竪堀とされている。その横のジグザグの点線が登城路である。

▲登城路はこのように頂上まで石段が整備されている。

▲登城路は竪堀を左下に見ながら続く。

▲朝日山城最大の見どころとされる竪堀であるが、近年では自然地形であろうとの見方が強くなっている。

▲城山の頂上は朝日稲荷神社となっている。

▲朝日稲荷神社下の段、三ノ曲輪跡の東屋。

▲三ノ曲輪の東屋前の説明板に描かれた鳥瞰図。

▲二ノ曲輪。朝日稲荷神社。

▲一ノ曲輪の中央土壇。

▲一ノ曲輪。西側の土塁。

▲南曲輪から見た岡部町の風景。

▲城山の南東、展望台。

▲駐車場に隣接する朝日山ビオトープ。夏にはホタルが舞うのかな。

----備考----
訪問年月日 2014年10月19日
主要参考資料 「静岡県の城跡」静岡古城研究会
「日本城郭総覧」
「静岡県古城めぐり」他

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