(かにえじょう)
愛知県海部郡蟹江町
▲ 蟹江城跡に建つ城址碑。かつては三の丸、二の丸、本丸
とあったというが、現在は宅地化されて城の面影は見られない。
とどめの一戦、
蟹江合戦
蟹江城は永享年間(1429-41)に北条時任の築城にはじまると伝えられている。他にも渡辺源十郎の築城になるとの説もある。両者ともどのような武士であったのか詳細は伝えられていないようである。 その後、蟹江城の名が出てくるのは永禄十年(1567)から始まる織田信長による北伊勢攻略の時であろう。攻略軍の先鋒を命ぜられた滝川一益がその当時居城としていたようなのである。 滝川一益は北畠具教を降して北伊勢五郡を信長の版図に加える大働きをした。一益はその後も長島一向一揆勢と戦い続け、天正二年(1574)の一揆鎮圧の功によって長島城主となったが、蟹江城は一益の城としてその後も維持されたものと思われる。 天正十年(1582)、信長亡き後の清洲会議で尾張は織田信雄(清洲城)の領国となり、その家臣佐久間正勝が蟹江城主となった。 天正十二年(1584)六月、小牧・長久手合戦(四月)で徳川家康と雌雄を決することができなかった羽柴秀吉は大垣城を本陣としていた。そこへ蟹江城から内応の報せが届いたのである。 この時、蟹江城主佐久間正勝は伊勢方面(峯城)に出陣しており、前田与十郎長定が留守を守っていたのである。内応は与十郎本人からの申出であった。 秀吉は伊勢神戸城に陣していた滝川一益に蟹江城乗っ取りを命じた。 滝川一益は九鬼水軍とともに六月十六日、沖合いから川を遡り、蟹江城に迫った。かつては一益の居城であったのだ。申し合わせ通り、城内から火の手が上がった。 一方の清洲城に陣する徳川家康はこの火の手を見て直ちに動いた。清洲城と蟹江城の距離は約10kmである。障害物のない当時であれば、立ち上がる煙は即座に察知できる距離である。 「蟹江城内に謀反ありと見た。城を敵に渡してはならぬ。直ちに出陣じゃ」 まず井伊直政が真っ先に駆け出したという。家康も側近を従えただけで清洲城を出陣し、多くの兵が競ってこれに続いた。 滝川一益らの船が城の西に着くのと同時に徳川勢も続々到着して上陸を妨害、織田信雄の軍勢も徳川勢に加わり、城を完全に包囲してしまった。 蟹江城内に入ることができたのは滝川一益ら七百人ほどで、謀反の前田勢を合わせても千人足らずであった。 十九日、徳川勢は櫓を組み、城への攻撃を強化、三の丸の突破も時間の問題となってきた。 ここにきて勝算のないことを悟った一益は降伏を申し入れた。 「滝川は信長公の功臣である。命は助けたい」 と信雄が家康に頼んだという。 結局、一益は信雄への忠義の起請文に与十郎の首を添えて差し出し、七月三日に海路伊勢へ退去した。 秀吉はこの敗戦で家康を軍事的に屈服させることを断念したと言われている。言い換えれば、蟹江合戦は家康が秀吉に与えたとどめの一戦であったといえよう。 落城後の蟹江城がどうなったのかは分からない。翌天正十三年(1585)の大地震で壊滅したとも伝えられている。 |
▲蟹江城本丸井戸跡。城址碑のすぐ近くの路上にある。城としての唯一の遺構である。 |
▲城址碑前に立てられた「地名のいわれ」説明板。かつてこの付近の河口から海岸にかけて蟹が多く住んでいたことから地名になったという。蟹江古城の絵が描かれている。 |
▲城址碑。 |
▲ 城址碑前の説明板。 |
▲ 蟹江町産業文化会館。同町歴史民俗資料館を併設している。この建物の四階部分の一部が城郭風になっている。 |
----備考---- | |
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訪問年月日 | 2010年4月3日 |
主要参考資料 | 「日本城郭全集」 |
↑ | 「尾陽古戦場記」他 |